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島を離れて

 船が迎えに来たのは上陸してから6時間後ぐらいのことだった。歩き回って足はだるいし、持ってきたミネラルウォーターとジュースのペットボトルがすっかり空となっていて、喉はカラカラだしで、海に船が見えた時は心底ほっとして両手を何度も交差させた。
「迎えに来たよ」
 その声に頷いて、船首に飛び移り、振り返って黒々としている学校の校舎を見た。ほんの数時間前まではあの中を、一人でビデオカメラを持って歩き回っていたと考えると不思議な気持ちだった。同時にこの景色を見るのは最後かもしれないという思いがわき上がった。

「どうする? ぐるっと一周してみる?」
 私がリュックをおろしたのを見て、船長さんが言った。
「はい、お願いします」
 そう答えて、私は船に備えつけられている椅子に腰掛けた。

 無数の落書き、割れたガラス、黒板に書かれた相合い傘、床に穴が空いた体育館、そして廃墟となった住居。

 ――いったいなんだったんだろう。

 興奮状態から醒めて、最初に思ったのがそれだった。島を歩いている時にいろいろ思ったことはあった。人がいるから都市はその形を留められるわけで、もし人がいなくなったら街は簡単に崩壊する、核戦争が起きたら、日本はこんな風になるのかもしれない、人口が著しく減った時に俺の住んでいる場所はこんな風になるかもしれない……。だが、そういうすべての“感想”が取ってつけたものに思えてきて仕方がなかった。「廃墟を見たら、そういうことを感じないといけない、それが自然だ」という心理から生まれた感想なのではないかという。

 船が軍艦島を回り、離れていこうとする時、船長さんの奥さんが話し掛けてきた。
「こうやって、軍艦島とは関係のない人を上陸させることに反対している人もいるんですよ」
 船のエンジン音にかき消されて奥さんの声は途切れ途切れだったが、彼女の島を見つめる視線で何を言っているのかが伝わってきた。
「それは、やっぱり、廃墟となった故郷を見せ物にしたくないというような思いからなんでしょうか?」
 私の問い掛けに、奥さんは風に吹かれて目に掛かる前髪を掻き上げながら何度か頷いた。
「そうでしょうね。自分たちが住んでいた場所が見せ物になるなんて許せないっていう。だけど、私たちは軍艦島という島があること、その島は昔、炭坑の街として栄えていたこと、そして、強制連行という不幸な歴史があったことを長崎に住んでいる人以外にも知ってほしいと思っているんです」

 島は完全に死んでいた。いや、死んでいたというより風化していた。匂いがないのだ。いつだったか、CMで見た時に感じた生々しさもなかった。
 強制連行された人が狭い部屋の中で泣いていたかもしれない。銭湯で父親の背中を子供が一生懸命流していたかもしれない。公園で、高校生の男女が仲良く話していたかもしれない。だが、それらのことを感じるには軍艦島はあまりにも年を取りすぎているのかもしれない。私には、あの島からは人の思い――似非科学風に言うなら残留思念――すらも消え去ろうとしていると感じられた。

 軍艦島はお金をかけて保存しようとしなければ、いずれ建物がすべて崩壊し、出入り禁止になり、なにもかもがただのゴミとなって、釣り人がたまにトイレとして利用するだけの人工島になるだろう。
 棄てられるだけではない。忘れられようとしているのだ。

 今後、島がどうなるのか、長崎県高島町の町民でもなく軍艦島の島民でもない私にはまったくわからない。ただ一つ、間違いなく言えることは、“このまま放っておけば、誰かにとっての故郷が確実に消える”ということだけである。

 -完-

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