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新宿から山手線に乗り換え、池袋で下車して地下鉄(東京メトロ)有楽町線に乗り、護国寺駅で降りて、ふと時計を見たら約束の時間までまだ一時間近くあった。
地下鉄駅特有のじめじめとした空気の中、私は何度かため息をついて頭を掻いた後、ジーンズの前ポケットに両手を入れて歩き始めた。相当緊張しているのだろう、電車の中で噛んでいたフリスクが溶けてなくなった途端に口の中が乾いてしまい、舌で舐め回してなんとか癒した。
振り返ってみて、約束の時間を聞き間違えたとき以外、誰かとの待ち合わせでこれほどまで早く来たことがない。
早く結果を知りたいと言うより、結果を知って早く気持ちの置き所を確保したいというのが本音だった。いいのか駄目なのか、本が出るのか出ないのか、小説家になれるのかなれないのか。体よく言うなら「小説家の卵」、しかし、彩実ちゃんの両親によって突きつけられた、「一般的には特に何者でもない」という現状は、金田一執筆で得た自信を少しずつ奪っていた。
階段を上って、視線を右に移す。相変わらず講談社の新刊が並べられている。初めてここを見たとき、もしかして自分の本がここに並べられるかもしれないと思って胸がときめいた。その気持ちは今も変わらない。すぐそこまで、一年前の自分の立ち位置と比べれば、本当に手が届くところまで来ているのだ。
護国寺周辺には特に時間を潰せる場所というのはないので、約束の時間まで私はただひたすら歩いた。まず、あのビルまで行こう。そうしたら横断歩道を渡って、今いる所の真向かいまで歩こう。その後、来た道を戻ろう。デイバックを背負い直し、そんなことを思いながら足を進めていく。
始めは原稿のことばかり考えていたが、次第に彩実ちゃんのことで頭の中がいっぱいになった。もう昼を過ぎている。私からのメールをとっくに読んで、もしかしたら返事も書き終わっているかもしれない。あのメールを読み、いったいどんなことを考えて、どういった返事を送ってくれるんだろう。
「俺さ、自分の本が出たら海に行って叫ぶんだ。うおおおおおおお、おまえら見たか、やったぞ、ざまあみろ!! って」
私の、そんな子供じみた言葉に、彼女は応えてくれた。
「うん、一緒に叫ぼう! 『やったぞ、ざまあみろ!』って」
今日、もし原稿がOKとなったとき、私の小説家デビューがきまったとき、彼女は私の隣にいてくれるだろうか。私が得た感動を共有してくれるだろうか。
同じ所を何周かして、時計を見た。10分前。
「――行こう」
私はそう口に出して、講談社のビルに向かって歩き出した。
警備員を横目に見ながら正面入り口から入り、受付のそばにある台に面会希望の紙を載せ、ペンで必要事項を書き入れる。
「児童局のAさんと面会したいのですが」
「はい……少々お待ち下さい」
事前の約束があるかどうかという項目をちらりと見た後、受付にいた四十代ぐらいの女性は内線電話の受話器を上げた。
「はい、はい」
女性は何度か頷いて受話器を下ろし、「お二階の方でお待ち下さいとのことです。10分ほどで来られると思います」と微笑みながら言った。
「あ、わかりました。どうもありがとうございました」
今思うと三階だったような気もするのだが、講談社ビルの何階かに待ち合わせルームのような場所があり、そこに行くようにということらしい。
旧館は正面から入って左の方に、天井が高くてちょっと薄暗く、そして細長い、大正時代の洋食レストランを真っ二つに切断して改造したような所が打ち合わせ場所で、時代を感じさせる雰囲気が大好きだったのだが、編集部がビルの方に引っ越してきたとなるともう二度とあっちの方で打ち合わせをするということはなさそうだ。
ちょうどエレベーターが上に行く所だったので、周りに人がいないかどうかを確認してから駆け足で乗り込み、一息ついた。
二階で降りてから、「ここかな」と周囲を見渡し、背もたれのない四角いソファに座り、デイバッグを床に置いてから腕組みをしてため息をつく。
無駄な調度品が一切ない、線の細いデザインで構成された今風の空間という感じで、背の低い本棚などが置いてある。天井が低いからなのか、それとも床が磨かれているせいなのか、旧館の打ち合わせ場所とは明るさがまるで違う。重厚な旧館に行った時は(俺、本当にここにいていいのかな)と歴史を感じながら戸惑ってしまったが、ここはここで、ドラマに出てくる大企業のオフィスという感じに見えて、やっぱり、(俺、本当にここにいていいのかな)と困惑してしまった。
「おう、工藤君、お待たせ」
シャツの襟とTシャツの裾を整えていると、すぐ近くにあるエレベーターの扉が開いてAさんがいつものポーカーフェイスで降りてきた。
「あ、どうも」
慌てて立ち上がり、頭を下げる。
編集者には専門のマニュアルでもあるのか、作家に原稿の是非を伝えるとき、顔を合わせた時点ではまず触れてこない。ちょっとコミカルタッチのドラマなんかでは、
「いやいやいやいやいや、○○先生。先日いただいた原稿、もう最高でした」
と、両手をこすりあわせながら言う編集者が出てきたりするが、実際には見たことも聞いたこともない。
顔色一つ変えず世間話を持ちかけてくるか、にこにこ笑いながら「原稿ありがとうございました」とだけ言うか、少なくても私が知っている編集者はみんなそうだ。
しかし、表情や仕草では判断がつかないとわかっていながらも、私はAさんのことを詮索するように見た。この時点でわかれば、気持ちが一気に楽になる。
「いやあ、なんかさ、最近いろいろと忙しくてね、なかなか大変だよ。予定がぎっしりなんだ」
Aさんはそんな私の気持ちを知ってか知らずか、そう世間話を振って笑うと、
「じゃ、そうだな、上でコーヒーでも飲みながら話そうか」
と続けた。
「はい」
Aさんの心のガードは鉄壁で、原稿はOKなのか、私に対してどういう気持ちを抱いているのかまったくわからない。やはり百戦錬磨のAさんの気持ちを読むことは不可能のようだ。置いていたデイバッグを背負い、私はAさんの後ろを付いていった。
「……」
「……」
二人でエレベーターに乗り込み、やはり二人で上に付いている回数表示のランプを眺める。別に気まずいというわけではないが、自分の人生を変えるようなある重大なことについて、結果を知っている人と知らない自分が狭い空間で並んで立っているというのは妙な感じだ。
ドアが開き、Aさんに続いて降りると、食堂のような大きなホールが目に入った。テーブルが多数置かれていて、先の方には大きなカウンターがある。巨大なスターバックスという雰囲気だ。
お昼を過ぎていたためか、客は私とAさんだけしかいないようだった。
「軽食とかも頼めるけどどうする?」
「あ、いや、コーヒーだけで結構です」
「そうか。じゃあ、コーヒー二つ」
Aさんが女性の店員さんにそう言うと、彼女は笑顔で返事をして、プラスティックの容器にコーヒーを注いでくれた。
「あ、自分のは僕持ちますから」
そう言ってトレーを受け取り、窓側の席についた。
AさんはA4サイズの封筒から私が書留で送った原稿を取り出し、テーブルの上に置いた。
(うわ……)
原稿から飛び出している付箋の数が半端ではない。原稿量が増えているのだから当然とは言え、たとえOKだったとしても相当な直しがあることは間違いないようだ。
「んー……」
Aさんは原稿に目をやったまま、そう声を出した。OKなのか。小説家としてデビューできるのか。自分の本が出るのか。心の中で、そんな同じ意味を持つ問い掛けが次々と流れていく。
Aさんのことだから、主文後回しでいきなり判決だろう。つまり、顔を上げて口を開いた時点で私の運命が決まるのだ。
コーヒーに口をやった。Aさんは最初の数枚をめくったりして、なかなか顔を上げない。私が追ってきた夢の答えがもうすぐ出ようとしている。小学生の時から抱いてきた夢。それを応援してくれた友達。私の本の幻を見て亡くなった母親。そして、ずっと一番近くで応援してくれた彩実ちゃん。
――これでいこう。
Aさんがそう言ってくれれば、すべてがハッピーエンドで終わるはずなのだ。もし神様というものがいるのならば、ここはなんとしてでも私の夢を叶えてほしい。私がずっとやってきたことが無駄ではなかったということを、私自身に教えてほしい。それをお願いできるだけの努力はしたつもりだ、だから――。
「……」
Aさんは顔を上げた。
そして、真っ直ぐに私の目を見て言った。
「これは駄目だね」