2010-2-14 Sunday

自サイトに思い入れが強く、費やしている時間が長い運営者が嵌るかもしれない罠

 小学生の頃、音楽の授業で二人で組みになってアルト笛とソプラノ笛で合奏するということになった。
 当時、私は今みたいに人付き合いが悪いわけではなく、放課後は必ず誰かと遊んでいたし、遠足のバスで補助席に座ることはなかったし、竹田君(仮名)という親友もいたが、席が離れていた竹田君が別の人と組んでしまった結果、私はあぶれてしまった。
 結局、音楽の先生が仲介する形で竹田君ともう一人の組に入れてもらい三人で吹いたのだが、あのときの私のみじめな気持ちは今でもリアルに思い出すことができる。友達がいないわけじゃないのに。放課後、遊ぶ奴はいっぱいいるのに。それなのにどうして?

 十数年後、私はサイトを立ち上げた。それから費やした時間は半端ではない。比例して人が来るようになり、「あなたの書いた文章が好きだ」といってくれる人たちとメールで交流する機会も増えてきた。
 アクセス数がピークを迎えていた頃のある日、プライベートで嫌なことがあり、できるだけ早く吐き出したかったために日記に愚痴を書いた。いわゆる「同情してほしいのかな?」と名無しさんに突っ込まれる類のものである。いや、実際にそうなのだ。読んでいる人は千人単位でいるはずで、ファンだといってくれる人もたくさんいるのだから、慰めてくれるような、それこそ「自分でよかったら聞きますから。酒でも飲みませんか」的なメッセージを期待して書いた。

 ところが、反応はまったくなかった。

 私はこのとき初めて自覚した。
 私は、そして私が運営しているサイトは、大勢いる閲覧者の、誰のプライベートにとっても「一番」ではないんだと。

 当たり前の話だ。きっと、この文章を読む誰もがそう突っ込み、嘲笑うだろう。閲覧者は皆それぞれリアルな社会に存在し、そこには職場や学校があり、友達がいて、恋人がいるのである。
 だが、膨大な時間を費やしてサイトを運営していた当時の私にはリアルとネットの垣根というものはなかった。
 サイトが元になって自分のことを認めてくれる人が出てきて、仲良くしてくれる人も増えて、みんなとつながっているような気になっていた、ところが心から求めたときに誰ともメールのやりとりすらできなかった。いくらサイトに人が来ようとも、みんなが声を掛けてきてくれたとしても、私はあぶれていたのだ。
 その事実があの音楽の授業を思い出させて、私はしばらくの間、相当落ち込み、別に友達を作りたくて立ち上げたというわけではないのにサイトを運営しているのが空しくなった。

 こんなことでショックを受けるのは自意識過剰な私だけかもしれない。だが、あてにならない推測ではあるが、サイトに対する思い入れが強いほど、費やしている時間が多いほど、そして自分及び運営しているサイトがネットで認められていると思えば思うほど、この罠に嵌る可能性があるような気がしてならない。

 繰り返すがこれは本当に罠だ。
 自覚のきっかけは予測できず、ある日突然大口を開けて、サイト運営者を虚無という名の暗闇に引きずり込んでしまう。

posted by kudok @   | Permalink

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