2010-6-05 Saturday

書籍化される個人サイトのコミュニティが高確率でぎくしゃくする理由

 個人サイトを書籍化するという話が出ると、かなりの高確率で揉め事が起きる。たとえば、「裏切られた気持ちになった」とか「ネットだから話題になっただけで、わざわざ書籍化するほどのものではない」という意見は、運営者と訪問者の間でぎくしゃくしたサイトのコメント欄、あるいはアマゾンの当該書籍のレビューで必ず目にする。
 こういった関係性を説明するのによく“嫌儲”という言葉が使われる。ネットで金銭的な利益を得ようとすることに対しての嫌悪感というものらしい。最近、“けんちょ”と読むのだということを知った。確かにお金の話が出ると揉めやすいなとは思う。しかし、書籍化されてもぎくしゃくしないケースもある。印税が運営者の手元に入るのは間違いないのにもかかわらずだ。表面的にはということなのかもしれないが、それでも揉めた様子もなく、すんなり出版されたケースを何度か見ていることは確かだ。となると嫌儲という言葉だけでは運営者と訪問者のぎくしゃくした関係を説明できないことになる。
 じゃあお金以外にぎくしゃくする要因はなんだろう、ということをふと考えてみた。

 書籍化されたサイト及びコンテンツの共通点(すべてではない)の一つに「倫理的に普通は書かないようなことが書かれている、あるいはしないことをしている」というのがある。倫理的にないことと書くと、なんだか犯罪行為スレスレのことだと思われるかもしれないが、もっと日常的なこと、たとえば、プライベート、あるいは職場でのエピソードの暴露といったことも当てはまる。
 偶然出会った異性とのドラマティックな恋愛体験談。どこで知り合って、告白されて、喧嘩をして、相手に近づく別の異性が現れて……と、ネットには相談という形でこういったものがあふれているので違和感ないかもしれないが、仮に自分が同じ経験をしたとして逐一ネットに書くかと問われたら返答は割れるのではないだろうか。「名前は明かさないといっても、他人の言動を許可を得ずにネットに書き込んでいいんだろうか?」という疑問を持つ人は少なからずいると思う。職場のエピソードも同様だ。笑いを取るためには誰かをピエロにしなければならない。それが筆者でないとしたらピエロにされた人の立場は? もし彼、彼女が目にしたらこれは自分のことではないかとわかるのでは? 更にいうなら特殊な経験、環境は絶対数が少ないのだから話の中の個人が特定される可能性もある。もしそんなことになったら責任を取れるのか?

 そういった危惧を抱く人からすれば、自分が倫理的見地から公開を控えていること、あるいはやろうと思えばできるし、注目を浴びることはわかってるいるけど社会人としてやるべきではないと考えていることを行って書籍化して金銭を得るというのは、列に並んで待っていたら、列とは関係のない場所にいた人が突然大きな声をあげて挙手し、なぜか列の先頭に誘導されたのを見たかのように「それはずるい」「おかしい」と思えるのではないか。
 サイト公開の段階であまりそういった声が上がらないのは“人気サイト”という局所的なステータスで収まっていればスルーできる、楽しめるということで、つまり、書籍化に異を唱える訪問者は、赤の他人がお金を得ることが嫌なのではなく、おかしなことをしている(と思える)人が、自著の出版という社会的ステータスを得ることに納得できないのではと思う。もし、そういった人ばかりが評価される世の中になってしまったら、すなわち、彼らと同じことができなければそのテリトリーで成功を収めることはできないということになり得るからだ。自分の倫理観と照らし合わせてできないと思っていることが高く評価されてしまう世の中というのは、多くの人にとってつらいものだろう。

 結論まで書いてみたが、いつものように誰かに聞いたわけではないので本当のところはわからない。ただ、書籍化が決まったサイトのコミュニティがぎくしゃくするのは嫌儲というキーワードだけでは説明できないという前提は間違っていないのではという気は漠然としている。

posted by kudok @   | Permalink

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