2010-8-05 Thursday

「あれば読む」という層のアクセスに依存するリスク

 初めての連載小説が雑誌に掲載されてから少し経ち、担当の編集者にどきどきしながら「評判どうですか?」と聞いたとき、「『あれば読む』っていう答えが多いね」という言葉が返ってきた。当時は「え、意外と受け入れられてる感じじゃん」と浮かれたが連載はすぐに打ち切りになった。今は“あれば読む”というのは“なくても構わない”と同義語なんじゃないかと思っている。

 ここ数年、毎日結構な数のサイトの文章を読んでいるが、「あるから読んでいる」という所が多いかなあとふと気づいた。あるからというのはネット上にという意味ではない。私が利用しているサイトで名前が挙がるという意味だ。
 私は個人サイトに限るとはてなブックマークの新着エントリー(5user以上)に掲載されているサイト、特定のニュースサイトで取り上げられているもの、それとGoogleリーダーに登録した数十ほどのフィードをよく見ている。はてなブックマークにおいては、私の興味を惹くタイトルを擁して新着エントリーに上がってくるサイトというのはだいたいいつも決まっているので、傍から見れば私はそれらのサイトの常連のように見えるだろう。だが、もし、それらのサイトの記事をブックマークする人がいなくなって新着エントリーに載らなくなったとしたら。きっと私はサイト名を検索してまで読むことはない。

 今、ニュースサイト、ソーシャルブックマークサイト、Twitter、面白い文章へのリンクはいつもそれらにあり、そこに行けば面白い記事へのリンクがあることが周知されていて、だから個人の文章は昔よりずっと読まれている。
 でも、記事が掲載された後にはてなのブックマークボタンを押す人が5人からずっと減ったら。いつも真っ先に記事を紹介するアーリーアダプターの趣味が変わったら。リンクが掲載されるサイト自体なくなったら。
 実はテキストサイトは少し形は違うものの、それらを経験している。アクセス数を底上げしていた相互リンクが大きなサイトの閉鎖や放置で機能しなくなり、また、運営者の本当の嗜好が反映されていたとはいいきれなかったためメンテナンスが行き届かないところが多く、結果、移転を行った多くのサイトがアクセス数を落としていったのだ。アクセス数が回復しなかった理由は「(お気に入りのサイトのリンクに)あれば読む」という人たちが移転先を調べずアクセスの継続を放棄したから、で間違いないだろう。

 形はいろいろあれどソーシャルブックマーク全盛の昨今、サイトの評価基準の一つであり、運営者の自信の裏付けであり、モチベーションの一端であり、商業化を目論んでいるサイトであれば運営計画の根幹を担うであろう一日辺りのユニークユーザ数というのは、実はテキストサイト全盛時代よりもっと不確かなユーザが多数を占めている、極めて脆弱な基盤なのではないだろうか。
 キャッチャーなタイトルと内容でアクセスを集めるのは悪いことではない。ただ、話題になることを前提とした記事だけを書き続けるのはリスクがある。いつもあるところからなくなってしまったとき、どれだけ続けて読んでくれる人を残せるか、そこに目を向けた文章も書いていくべきだろう。
 自戒してこのエントリーを締めたい。

posted by kudok @   | Permalink

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