2013-8-29 Thursday

ネットで少し成功した人が、その後、失速したことを記す意味

 以前、盟友の呉エイジさんに似たようなことを指摘されたのだが、ここ何年かの当サイトは、家族から話を聞いてもらえなくなったおじいちゃんが、孫や囲碁を指しに来てくれた人に、自分の過去を振り返って、一方的に「あれは失敗だった」「もっと違うやり方があった」という話を多く聞かせているような場所である。

 なぜ、そのような話を多くしているのかというと、うまくいかなかった人の話がもっとインターネットにあっていいと思うからだ。
 インターネットは特に、現在のフロントランナーの話だけしか注目されない傾向がある。はてなブックマークやNAVERまとめでピックアップされている人は、旬の人かこれから世に出ようという人ばかりだ。テレビや雑誌などであれば、『あの人は今』的な企画で過去の人を引っ張ってくることもあるが、ネットメディアでそんな企画を立てる人はまずいない。
 では、フロントランナーの話がすべて素晴らしいかというと、必ずしもそうは言えないと思う。たとえば、十数年前のフロントランナーであるテキストサイトの運営者は、私を含め、「毎日三時間かけてクオリティの高い更新を行えばサイト運営は必ずうまくいく」みたいなことをよく語っていたが、それを追求した結果が現在の惨状だ。彼らは、地球の歴史で言えば、カンブリア紀に現れて一瞬栄えたが、その後、進化に失敗した生物みたいなものだ。そういう人たちが未来永劫、ネットで通用するようなことを語れるかというと、まず無理である。
 今、ネットで影響力のある個人、及び個人サイトも、俯瞰すれば同じカンブリア紀でテキストサイトの後にちょっと繁栄しているだけの、未来の生物にはつながらない生物かもしれない。なにしろ、まとめニュースサイトの管理人にしろ、プロブロガーにしろ、ネットを中心に活動しているジャーナリストにしろ、誰も年金生活に辿り着いていないのだ。彼らのアプローチで影響力を長く保ち続け、且つ、穏やかな老後を過ごせるのかなんて誰にもわからない。当然、彼らのネットでの活動の仕方が正しいのかどうかもわからないということになる。

 だからこそ私は、「こういう心理で、こういうアプローチでネットで活動して一時的に成功したが、結局うまくいかなかった」という話が重要だと思う。同じアプローチをして成功した人が読めば、闇雲にこのまま永遠にうまくいくという錯覚をしなくて済むし、うまくいかなくなるきっかけにはこういうものがあり、修正しなければどのようになるかを若い人に伝えられるからだ。うまく伝えられれば、彼らは無駄なルートをある程度回避出来る分、継続的な成功を得られる可能性が少しは高くなるだろう。
 ただ、ネットでそういう話を書く人は少ない。「ネットアイドルとして当時はこういう思いで活動していたが、今はこう思う」とか、「テキストサイトの運営を頑張っていたが、今はあの頃についてこう思う」とか、「ブロガーとして活動していたが、当時を振り返ると今はこう思う」とか、観測範囲にいないだけかもしれないがそういったことを精力的に書いている人はほとんど見ない。やはり、うまくいかなかった話を書くのは気が引けるのだろうし、仮に一つ、二つ書いたとしても、一定の影響力がないとなかなか大衆に届かないというのもあるだろう。そもそも表現活動をやめてしまっている人も多い。

 じゃあせめて、私は思いつく限り書こう。そう思っている。
 今、当サイトに定期的にアクセスしてくれる人はだいたい100人から150人程度だろう。最盛期の二十分の一だ。ネットでの活動が認められて単著を出していた時期もある。でも、それから10年以上出せていない。
 そういった立場で、あれは失敗だった、今思えば別のアプローチがあった、別の考え方があったと伝えることには多少なりとも意義があると思う。
 勿論、そのテーマならまだ飽きていないから、とか、オリジナリティを出しやすいからといった、自分にとって都合のいい理由もあるから書くという部分も否定出来ないが、これからも思うことがあれば、ぼちぼちと記していきたい。無論、また方向性を変えて、フォントを大きくしたテンションの高い文章を書くこともあるかもしれないが。

posted by kudok @   | Permalink

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