2008-1-05 Saturday

嫌いの下にはどうでもいいがあるという話

 世間はわりと、「好きの反対は嫌いではなくどうでもいい」で話がまとまっているような気がする。嫌いということは興味がある上での感情というのが根拠だと思うが、確かに、たとえばブログの執筆者がなにかしら問題を起こした後、自分だってつらいんですよみたいな話を書いた時、コメント欄に捨てハンで「同情してほしいのかね」とか「この際、閉鎖したらいかがでしょうか」などと記入する人を見ているとほのかな愛のようなものを感じる。「同情してほしいのかね」は「泣き言なんていうな」と書いているようにも取れるし、「閉鎖したらいかがでしょう」は「一からやり直せ」とも取れる。どっちもポジティブだ。
 でも、ブログの執筆者はそういう言葉をなかなかポジティブに受け取ることはできないから、殻に閉じこもったりする。記事も、嫌な言葉を投げつけられたくないので、そうされる前に自分で書いてしまおうなんていう感じのものが増える。更新ができなくてすみませんとか、こんな文章しか書けないんですとか、自分を卑下する前振りをする人は、だいたい、以前、その前振り部分(更新しないとか文章がへたくそとか)を誰かに責められて傷ついた経験があるのではないだろうか。

 いくら時間が経過しても、嫌な言葉を投げつけられた経験のある人は、投げつけた人がいつまでも近くに潜んでいると思っていたりする。なにか下手なことを書いたらまた嫌なことを言われるんじゃないか。だから、殻に閉じこもるか、自分の卑下の方が多いような文章を書き続ける。

 だけど好きの下には嫌いがあり、嫌いの下には「どうでもいい」があるならば、ブログの執筆者を罵倒した人は時間とともにその執筆者のことをどうでもいいと思うのではないだろうか。“愛”が色あせるならば“嫌い”も色あせる。両方とも色あせて残る感情はやはり「どうでもいい」だろう。自分のことをどうでもいいと思い、とっくの昔に去った人間に対して怯え続けるのは時間の無駄である。

 ずっと昔に受けた人の言葉に傷つき、いまだおびえ続けている人は、勇気を持って一歩だけ外に出てみよう。

 そこには、あなたの笑顔をただずっと待っている人がいるかもしれない。

posted by kudok @   | Permalink

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