だいぶ前の話になるが、森田芳光監督の『(ハル)』という映画を見た。再見である。初めて見たのは劇場公開されてから一年ぐらい後で、媒体はレンタルビデオテープだった。私がちょうど、ニフティでパソコン通信にはまっていた頃だと思う。
この映画のことを知らない人も多いと思うのでざっと説明すると、パソコン通信のフォーラム(mixiのコミュニティのようなもの)で知り合った男女(深津絵里と内野聖陽)が、メールの交換をしていく中で、興味から信頼とお互いへの思いが変化し、やがて惹かれ合うというものである。
十数年ぶりの再見ということになったが、初めて見たときと少し印象が違った。というのは、好きなシーンが変化していたのだ。
初めて見たときは、地方都市に住む深津絵里と東京に住む内野聖陽が、新幹線の車内と田んぼのあぜ道という対照的な空間でビデオカメラを構えながらお互いを撮影し、メールを交換している相手は実際に存在しているということを確かめ合うシーンが大好きで、何回もビデオテープを巻き戻して、繰り返し見た記憶があるが、再見時は、ラストに至るまでのシーンが素晴らしいと思って、DVDを何回も巻き戻してしまった。
以下、ネタバレになるので、未見で、これから見ようという人はスルーしてほしいと思う。
素晴らしいと思ったきっかけは、「ハル(内野聖陽)は、ほし(深津絵里)と会うのを楽しみにしていたはずなのに、なぜ、東京駅のホームに、ほしが乗っている新幹線が到着するタイミングでやって来たんだろう」という疑問からだった。
ハルは、はやる気持ちを抑えきれないという状態だったと思う。であれば、新幹線が到着するずっと前から、約束の場所(ホームの先頭)に立っているべきだったと思う。ところが、新幹線がホームに入ってくるタイミングで、ハルは追いかけるようにホームを走って約束の場所へ向かうのである。
しばらく考えて、これは森田監督の計算された演出なんだと気づいた。
リアルを重視すれば、ハルはずっと前からホームの先頭にいるべきだった。しかし、そのリアルよりも、森田監督は見せたいものがあったのではないだろうか。それは、ハルとほしの気持ちである。
東京へ行くと書かれたほしのメールには、ただそうします、とあるだけ。絵文字が入っているわけでも、「どきどきする」といった気持ちが含まれているわけではない。ハルもきみに早く会いたいなんていう返事を書いたわけではない。
東京駅のシーンでは、観客は二人のリアルタイムな気持ちを想像するしかない。
そこで、森田監督はシンクロさせたかったのではないだろうか。ゆっくりと東京駅に入ってくる新幹線、それはほしの気持ちであり、新幹線に“併走”する、つまり、待っているのではなく、走っているハルの姿は、ハルの思いなのではないだろうか。同じスピードで、同じ方向へ進みながら、一方は徐行で、一方は駆け足というのが、ハルとほしの気持ちそのものなのではないだろうか。
なぜ、今はこのシーンが好きなのか考えてみた。
演出の美しさを感じたからかなと思った。人が考えた美しさというのか。
演出されたシーンと“つっこみどころ”は紙一重だ。数十年前のドラマなどを見ていると、笑ってしまうこともある。
昨今の邦画を見ていると、ドキュメンタリー的な現実感を出すためか、わざとカメラを手ぶれさせているようなシーンが多い。『(ハル)』の初見時に好きだったシーンも、市販のビデオカメラで撮影したという設定なので、思いっきり、そういうカメラワークだった。
でも、つっこみを怖がってすべてリアルを追求したら、それはもう、フィクションではなくなってしまう。
私は、『(ハル)』の東京駅でのシーンで、“リアル”よりも“演出”を優先した森田監督に、フィクションを作るクリエイターとしての意地を見たのかなと思う。きっと、そこに感銘を受けたのだろう。