中学、高校辺りで「自分は将来、小説家になりたい」と考えている人というのは、「俺とおまえらは違う。なぜなら俺は特別な才能の持ち主だからだ」のような意識を強く持ち、世間の多数、あるいはリア充と呼ばれる人間たちが行う俗っぽいことから距離を置きたがる傾向にあるのではないかと思う。
毎日のように海にでかけてはサーフボードに乗り、仲間たちとバーベキューをする作家志望の高校生というのは、探せばいるかもしれないが、あまり多くはないだろう。
世間一般のこと、リア充から距離を置きたがる小説家志望の少年、青年の意識の中を深く覗き見ると、
とまあ、こんな気持ちが潜んでいるのではないだろうか。
当然のようにというか、私もそんな人間だった。
そんな私が十九歳の頃の話である。
当時、私は友人に会うたびに、「俺は成人式行かねえから」とアピールしていた。
- ニュースでよく見る、新成人のやたらと高いテンションが嫌だ、一緒にされたくない
- ニュースでよく見る、きゃぴきゃぴとちゃらちゃらが混ざった雰囲気に溶け込めない
- 成人式には参加するものという常識が嫌だ
- そもそも成人式というものの意味がわからない
多分、上のようなことを「行かない理由」としてまくし立てていたのではないかと思うが、今考えると、「小説家になる俺と、おまえらは違う」と自意識を常時てんぱらせていた半フリーター半無職の自分が、ジーンズメイトで買った一張羅のコートを着て成人式に参加したら、自分の現状を正面切って話せず、あっさりと集団の中で埋没することになるのが耐えられないというのが本当の理由だろう。

私の熱い語りを聞いたみんなは、「まあ、確かにそうだよなあ、あんなもん、行っても意味ねえし」と話を合わせてくれたのだが、なんと成人式の当日、「おい、工藤、成人式行こうぜ」と言って、当たり前のような顔をして私の家にやってきたのだ。
「なんで来んだよ!? 俺行かねえって言ったじゃん!」
玄関先で私は声を荒げた。
裏切られたとは思わなかったが、なんだかんだ言っても工藤も来るだろうと思われていたことが腹立たしかった。俺はそんな軽薄な人間じゃないぞ!
結局、私は不参加で、友人たちは参加して、帰りに何人かが芸能人の誰それがゲストだったとか、辞書をもらったという話をしに来た。
で、それから年月が経過し、今、成人式に参加しなかったことについてどう思っているのかというと、
という心境なのである。
もし、あの日、成人式に参加していたら、物書きとしてなにが得られただろうと考えるのだ。
- 芸能人の営業トークや市長の話など、成人式の一部始終が見られた
- 晴れ着姿の若い女性を間近で観察できた
- 自分を特別だと思い込んでいる人間が、その他大勢として埋没する心情を得られた
- 成人式に出ないと言っていた人間が、結局出てどう思ったのかということを知れた
最低でも、この辺は得られたはずなのだ。もしかしたら、
- 成人式で隣に座った女の子と意気投合し、付き合った
- 成人式で、「わたし、中学のときにずっと工藤くんが好きで……でも、言えなくて卒業しちゃったけど……それをずっと後悔していて、もし、成人式に工藤くんが来たら、そのときは絶対告白しようって、そう思って……」とクラスメイトだった女子に泣きながら言われ、そのまま付き合った
- 晴れ着の女性をターゲットにしたマジックミラー号が来ていて、素人男性として参加した
こんなこともあったかもしれない。
つまり、参加していれば、(マジックミラー号は置いといて)フィクション、ノンフィクションで使えるパーツをいろいろと得られたはずなのだ。
「自分を特別だと思い込んでいる人間が、その他大勢として埋没する心情」というのは、キャラクターの肉づけとして使えそうだし、「成人式に出ないと言っていた人間が、結局出てどう思ったのか」というのは、会話シーンで使えるかもしれない。一番大きいのは、成人式という日本人なら誰でも知っているイベントを、実際の体験に基づいて書くことができるということだろう。
しかし、私は参加しなかったので、成人式に出たときの心情も成人式の様子も、想像で書くしかないわけである。
じゃあ、成人式の話は書かなきゃいいんじゃないの、と思う人もいるだろうが、成人式というのは“斜に構えすぎて得られなかった経験”の象徴のようなもので、ようはこの調子で、十代、二十代の一般人の多くが経験していてもおかしくないようなこと、女性と付き合うといったハードルの高いものではなく、その気になれば誰でも経験できることを、私はあまり経験していないのだ。それに対して、
なのである。
若い頃から自分の趣味、感性に合うことしかやっていないというのは、物書きとしては、年を取るにつれてボディブローのようにネガティブに効いてくる。世界が広がらず、書けることが限定され、やがて行き詰まってしまう。
年を取ってから若い人たちと一緒に過ごし、なかったところを埋めるということも可能だが、十代、二十代の感性では受け止められないので、結局、その年代の感性で受け止めて得られる感情というのはわからないままだ。
学生の頃から小説家になりたいなんていうことを言う人間であれば、「俺とおまえらは違う」という意識は持っていていいと私は思う。そのぐらいのナルシストでなければ、なにも約束されていない道を人に蔑まれながら何十年も歩くなんていうことはできないと思うからだ。
ただ、自分の感性とは合わないし、埋没したくないからという理由で、多くの人間が経験しているイベントを完全に無視するのはやめた方がいい。
「○○って、結局、ウェイウェイ系のカップリングパーティみたいなもんだろ」
「□□なんて、特定の男がいるのに別の男を漁ろうとしているビッチとの懇談会じゃん」
「△△に旅行? そんな誰でも行くようなところに行きたくねえ」
そう思うのはいい。しかし、小説家志望と言うのであれば、行けるチャンスがあるなら一回は行っておいて損はない。
小説という複雑で巨大な構造物をいくつも作る小説家にとって、手持ちの“経験=経験したことによって知ったこと=経験したことによって得られた感情=パーツ”はいくらあっても多すぎることはないからだ。