ソーシャルブックマークサイトを見ていると定期的に出てくる「支持されるブログ 20の条件」みたいなやつ。海外発の記事が多いように思うが、大抵、その“条件”の一つとして「一見の読者は最終更新日を見てそれが三カ月以上前だったら二度と来ないでしょう」といったシニカルな説明書きと共に「頻繁な更新」というのが入ってくる。
確かにそうなんだよねえと思う。毎日のように継続して更新していれば訪問者は少しずつ増えるし、放置すれば訪問者数はビルの下り非常階段のようなグラフを作る。
でも、90年代が全盛でそれからずっと下り続けている人間からすると、頻繁な更新に伴う訪問者増の弊害が気になるところである。その弊害とは精神的に疲れるとかそんなことではなく、“変わりにくくなる”“変えにくくなる”ということだ。
どういうことか。たとえば野菜の栽培に目覚めて、自分の家の庭先で、収穫したものを売り始めたとする。毎日、キャベツや人参を並べているうちに馴染みのお客さんができた。しかし、三年ぐらいして野菜の栽培に飽き、モバイルパソコンに興味が移ったとする。この段階で野菜をEeePCに変えられるだろうか。EeePCを並べて野菜を買いに来た馴染み客に「すみません、野菜はどうでもよくなったので売るのやめました。で、これ見てください。EeePCっていうんです。ちっちゃいでしょう。でもXPが動くんです」などと言えるだろうか。借りに言ったとしても無駄足を運ぶことになった馴染みの客たちに罵倒されて商売自体嫌になるだろう。
人間が物を作る際、その終着点は
- そのまま作り終える(つまり最後まで続ける)
- 途中でやめる
- 作っていたものを変える決断をする(で、作り終えるかやめる)
のだいたい三つだと思うが、“変える”がないと「続ける」か「やめる」しかない。小説や漫画なら「完成」があるのでいつか解放され、新たなスタート地点へ行けるが、サイトには完成がないので変更できないとなると本当に「続ける」か「やめる」しかない。ゴールがない一直線の継続というのは苦行といっていいだろう。大抵の運営者がどちらを選ぶかは明らかだ。
テキストサイトの存在が目立たなくなった――著名なサイトの更新が減少した――というのも、いくつかのサイトにおいて頻繁な更新と人を楽しませるといったある程度決まったテーマで運営し、支持を集めていたが、逆にそのせいで、現状に飽き、または興味対象がかわってテーマを変えたいと思ってもそれができず、興味を失った今のサイトを続けるかやめるかの二つしか選べなくなってしまったからではないかと思う。本当は趣味として続けたかったが、今あるベースを大きく変える決断ができず、放棄するしかなかったということだ。
頻繁な更新と多数の訪問者の存在がなければ路線変更は比較的簡単だ。月一回のペースでのんびりと猫飼育日記を書いていた運営者が、ある時から日記の内容を遠距離恋愛記録にしても彼はストレスを抱えないだろう。期待感を持って猫日記を読みに来る人を裏切る心配というのをあまりする必要がないからだ。
以前にも書いたような気がするが、支持されるブログの条件が話題に上り、その条件を満たすサイトの記事が人気エントリーになる一方で、昔流行ったサイトの話題になると「懐かしい」「まだあったんだ」といったコメントが書き込まれる。これらは表面的にはネガティブではないが、ようするに「時代についていけずに終わったサイトだよね、これ」と言っている。
しかし、それらはなぜ終わってしまったのか。
もし、私が書いたように、ある程度テーマを絞って頻繁な更新を行っていたために今の自分が抱いている興味にあったテーマに変えることができず、興味を失ったものを続けるかやめるしかなくなって結局やめてしまったということであれば、今、ある程度決まったテーマを持ち、頻繁な更新を実践してコメントを書き込む人たちを始めとする読者の支持を集めているいくつかのサイトも、いつの日か“終わったサイト”と同じ道を辿るだろう。
変化できず朽ち果てる。人気サイトの運営の基本のように語られ、多くの訪問者という、野心的な運営者にとって甘い蜜を呼び込む“頻繁な更新”とは、実はピークと共にそんな終末をも呼び込んでしまう毒薬なのではないだろうか。