第4回 名前
サイト掲載日 1997年11月8日 エッセイ
名前の響きが弱いのか、私の声が鼻声なのか、昔は名前を伝えるたびに「え?」と聞き返されていました。「け、い です」と区切って言うようになってから一回で理解してもらうようになりましたが、区切ったり、力を込めたりするようになったのは、今回の話がきっかけだと思います。
私の名前は「圭(けい)」である。亡き母親によると、「山本圭(『一つ屋根の下』などに出てくる俳優で、確か兄が昔、養命酒のCMに出ていた山本学だったと思う)のファンだったから付けた」ということで、そのわりには山本圭のファンという姿など微塵も見せたことはなく、当時の母親のノリ一つで相当安易に付けられたんだなということがよくわかる。
まあそうは言っても、せっかく親が付けてくれた名前だし、特に不満はないのだが、ただ一つ、大きな問題点がある。
「けい」という名前が持つ語感に対し、「これは名前だ」という感覚を持たない人に、電話で私の名前を説明する時、かなり苦労するのである。
昨日の朝。午前6時30分。
電話がかかってきた。
私にとって、かなり常軌を逸している時間である。この時間まで起きていたことはあっても、起きたことはあまりない。
(なんだ、親戚でも死んだか?)
布団の中でそんな不謹慎なことを思った私であるが、もしそうならこのまま電話を取らないのはまずい。仮に不幸でないにしろ、こんな時間に電話してくるぐらいだから、電話をかけたきた人間は相当重要な用事が工藤家の誰かにあるのだろう。
7時30分にベルが鳴るようにされていた目覚まし時計のセットを解除し、私はふらふらと立ち上がって電話に出た。
「あい、くろうです」
口がまともに開いていなかったために、まず間違いなく相手にはこう聞こえただろう。
「え、あのー、***さんでございますか?」
中年の男の声で、聞き覚えのない名前が含まれた言葉が聞こえた。
(……おいおい、まさか間違い電話じゃねえだろうなぁ)
私はそう思いながらも、
「いや、ちらいますけろ(違いますけど)」
と言い、相手の反応を待った。
「あれ? あのー、**さんはいらっしゃらないんですか?」
……。
*****……なにか、どっかで聞いたことのある名前だという気がしてきた。
しかも最近、その名前の人と知り合ったような……。
「……もしかして、銀行の方ですか?」
思い出した。私は先日、*****さんに、○×銀行経由でATMを使ってお金を振り込んだのだ(1500円ほど)。多分、そのことでの問い合わせの電話だろう。
「あ、そうです。おわかりになられますか?」
男がほっとしたような声で言った。
「はいはい」
「受け取り人が*****様で、ご依頼人も*****様になっているのですが……」
「あー、そりゃ多分間違えたんですね。振り込んだの、僕なんで」
「あ、そうですか、では、あなた様はいったいどちら様なのでしょうか?」
「あ、僕の名前ですか?」
「はい、そうです」
「えーと、工藤圭です」
「はい?」
こう聞き返された時点で、何か悪い予感がした。既に目は覚めていて、言葉はしっかりと発音しているつもりだ。しかし、どうもこれから名前伝達失敗の無限地獄に陥っていくような気してしょうがない。いつものパターンにはまりつつある。
「工藤圭です」
「……工藤……きい様?」
なぜ、「きい」(笑)。なにをどう聞いたら、「けい」が「きい」になるのだ。
「いや、工藤『けい』です。けい」
「工藤……きい様?」
言い直しているんだから、自分が言っている名前が間違っていると気づかないのだろうか。だいたいよく考えてみれば、なんで朝の6時30分に銀行から電話を掛けられて起こされた挙げ句、自分の名前を間違って呼ばれなきゃいけないのだ。
「いや、けいです。けい。かきくけこの『けい』です」
「工藤……きい様?」
まさに無限地獄。いつになったらわかってくれるのだろうか。普通に考えて、工藤きいなんて名前が存在するとは考えられないだろう。しかし、その架空の名前を連発する○×銀行の男。しかも朝の6時30分。なんとかしてくれ、という気分だ。
「いや……あのですね、工藤『けい』です。け・い」
「……あ、工藤圭様! あー、はいはい、圭様! はっははは」
あんたにとっては笑い事かもしれないが、朝の貴重な睡眠時間を潰されている私は、とても笑えない。
しかし、『工藤きい』はまだいい方かもしれない。以前、布袋寅泰かなんかのライブチケットを取るために『チケットぴあ』に電話した時、『工藤きい』以上にとんでもない名前を言われた。
「はい、ありがとうございます。チケットぴあです」
「(よしかかった!!)あ、あの、布袋のチケットまだありますか?」
「えーと、S席でしょうか、A席でしょうか?」
「S席2枚でお願いします!」
「はい、それでは只今よりお席をお探しいたしますので少々お待ち下さい」
……そして1分後。
「もしもし、お席のご用意が出来ました。布袋寅泰、日本武道館、S席のチケットが2枚、以上でよろしいですか?」
「はいはいはい!!」
「それではお名前とお電話番号を市外局番からお願いします」
「えーと、名前は工藤圭です」
「……工藤……なに様でございますか?」
……悪い予感がした。これ以前から、チケットぴあで私の名前が一発で確認されることは少なかったが、どうもこれまで以上に苦戦を強いられるような、そんな予感が電話口から漂ってくる。
「けいです」
私がそう言ってからしばらく間が空いた後、オペレーターの自信なさそうな声が聞こえてきた。
「工藤……えい様?」
サザエさんか。
工藤えい。まあ、あり得ない名前ではない、昔、リクルート事件で掴まった被告もこんな名前だった気がする。そういう意味では、まだまともな反応だ。
「いや、けいです。け・い」
私は言葉を区切って言ってみた。いつもならここでわかってもらえる。
「工藤……へい様?」
工藤へい。アメリカ人受けしそうな名前である。呼ばれるときは、「ヘイ! へい!」などと言われるのだろうか。一塁ランナーとしてリードしちゃいそうな呼ばれ方だ。
「いや、違います。けいです。工藤けい」
「……工藤……せい様?」
「いや、けです。け。せじゃなくて、『け』」
(いくらなんでも、これでわかってもらえるだろう)
私はうんざりしながらも、はっきりした口調でそう言った。
しかし、ぴあの人は私の期待には応えてくれなかった。
「工藤……け様?」
これ以降、私はチケットぴあには「工藤一郎」という偽名を使って電話をかけている。