身の回りの出来事系エッセイ-22 電車の一番前の車両

1997年12月12日執筆


 私は、地元の駅から電車に乗って新宿方面に行くとき、必ずと言っていいほど、一番先頭の車両に乗る。
 真ん中の車両はとにかく混んでいるし、かと言って一番後方の車両だと改札まで行くのに時間が掛かる。
 そんなわけで一番先頭の車両に乗るわけだが、この一番先頭の車両には、ちょっと変わった人が集まりやすいという性質があるようだ。

 以前、バンドの練習で新宿へ行くために、いつものように小田急線の一番先頭の車両に乗っていると、一見、ラグビーでもやっていそうながっちりとした体格の、真面目そうな好青年が乗り込んできた。
 私は、彼をちらっと見ただけでスポニチの紙面に目を移す。

 あたしの初体験は、高校1年の時、大学生の彼氏と……。なんか、痛がっている間もなくあっという間に終わっちゃった。
 それで今週の日本ダービー。あたしの狙いはシルクライトニングでーす!

(あ、そう。よかったね)
 記者が書いたとあからさまにわかる、AV女優の競馬予想。
 毎回読むたびに紙面の無駄を感じるのだが、どうしてもそこへ目が行ってしまうという事実も、男性の方だったら頷けることだろう。
 大人のページをさらっと読み通し、芸能面などを読んでいると、さきほど乗り込んできた青年が、なにやらぶつぶつ言っているのが耳に入った。

「俺は……俺は……ビッグになりたいんだよ……」

(……)
 どうすればいいのかよくわからなかったが、私はスポニチを読みながらも、ちらちらと彼の様子を伺った。

「俺は……アメリカ行きたいんだよ……アメリカ行ってビッグになるんだよ……だから、英語の勉強もしてんだよ……」

(……まさか吉田栄作じゃねえよな?)
 そう思って彼の顔を見てみたが、どうみても吉田栄作には見えなかった。それに、吉田栄作はアメリカに修行しに行っていて、日本にはいないはずだ。
 周りにいた乗客の視線が、当然のように彼に集まる。彼の側にいた女の子は、逃げるように私の隣に来た。
 しかし私は、逆に彼に近づいていった。こういう興味深い人間の言葉は一言一句聞き漏らしてはならない。

「早くアメリカ行きてぇよ……パスポート取りに行かないとな……どうやって行こうかな、船か飛行機か……ああああ、わかんねーよ」

(俺にはきみがわからない)
 なぜ電車の中で、唐突に「アメリカへ行ってビッグになりたい」という発言が出てくるのだろうか。ぼそぼそとした喋り方が、彼の気持ちの真剣さを浮き立たせてはいるのだが、周りの乗客からも当然のように浮きまくっている。
 それからしばらくの間、彼はうわごとにように「アメリカへ行きたい」を繰り返していたが、やがて落ち着いてきたのか、急に無言になった。
(言うこと云って、すっきりしたか……)
 私はそう思い、再び、スポニチに目を通す。
 そして10分後、電車は下北沢駅に到着した。
(もうすぐ新宿だな)
 そう思いながら、駅の風景などを眺めていると、さっきの青年が扉が開くと同時に外へ歩き出していった。
(ほー、きみは下北沢に用事があったのか)
 しかし、数秒後、彼は私の予想外の行動を取った。

うおおおおおおおおおおお!!!

 いきなり叫び始め、壁に頭を打ちつけ始めたのである。

(……)

 茫然と彼を見ていた私の隣へ、彼は再び何食わぬ顔をして帰ってきて、振り絞るような声こう言った。

「アメリカ行きてぇ……」

 ……この日から今日で半年ほど経つ。
 彼はアメリカへ行くことが出来たのだろうか。

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