身の回りの出来事系エッセイ-42 タッチを観て思う
1998年10月28日執筆
私は、タッチに出てくる浅倉南(野球部のマネージャー兼女子新体操部キャプテン)のことがいまいち好きになれない。
なぜか。
それは恐らく、あの男好きのする独特な喋り方に原因があると思う。
例えば、上杉達也が試合に負けてふさぎ込んでしまったとしよう。当然、隣に住んでいる浅倉南が彼を励ましに行くわけだが、通常(今の日本に住んでいる高校生)だったら、
「たっちゃん、元気だしなよ」
「うん……」
「そんなしけた顔してんじゃないよー、もう」
「ああ……」
「もう、『うん』とか『ああ』とかさぁ、そういうのやめて、もっとしゃきっとしなよ。いつまでもクヨクヨしてないで。ほんと、男らしくない」
という感じで、自然な喋り言葉を使った会話が展開すると思う。だが、タッチの浅倉南は違うのだ。
「たっちゃん、元気出してよ。南も悲しくなっちゃうぞ」
「うん……」
「もう、そんな顔、たっちゃんらしくないぞ。南の知ってるたっちゃんは、もっと強い男の子だぞ」
「ああ……」
「もう、たっちゃん。南のためにも元気出して。ね☆ たっちゃん」
比べてみていだたければわかると思うが、「ぞ」を語尾に多用する浅倉南の話し方が、どうにも押しつけがましく感じられてしょうがないのだ。
更に彼女の場合、“自分が可愛いということを自覚し、それを強調するタイプ”なので、行動が鼻につきやすい。
話はずれるが、今日、改めて“上杉達也が社会人になった場合”を考えてみた。彼は、学生であるからこそあの気だるさがよく見える(主人公として)が、社会人になったらどうするのか。野球では食べていくつもりはないだろうから、仕事も普通の仕事だろうし、その仕事もあまり一生懸命やりそうな気がしないので、大成するのはちょっと無理っぽい。
多分、あだち充の思考からすると、南の実家である喫茶店を南と結婚して継ぐということが考えられるが、達也のスタイルから考えて、店を繁盛させるという意欲もなく、淡々と一生を終えていく様子が目に見える。
更に南との結婚生活だが、もともと相性がいいという感じでもないので、会話も間がかなり空き、暗い家庭になると考えられる。なにしろ、この二人には共通の趣味がまったくない。
夜の夫婦生活に関しては、南はいいとして、達也は高校生にもなって、女生徒のパンチラ及びブルマ姿を見るだけで性的に満足出来るという心の持ち主であるため、淡泊なものになるに違いない。
勿論、実は部屋でエロ本を読んで自慰ぐらいはしているのかもしれないが、私だったら南が時間をわきまえず押し掛けてくるという状況で自慰をするのは不可能である。仮に見られた場合、開き直って押し倒しそうだ。
そういうシーンはまったくなかったことから考えて、達也は自慰すらしてなかったと断定するのが適切だろう。
そんな幼い性的思考の持ち主が、まともな夫婦生活を送れるのだろうか? 架空の人物を心配してどうすると言われればその通りなのだが、結構心配になってくる。
こうして考えてみると、タッチに出てくる人たちというのは、学生であるという設定を前提にして光っているわけで、そこから離れた瞬間に輝きを失ってしまうことが容易に推測出来る。
こういう生き方もありだと思うが、私にはあまり向いていそうもない。