ネット話系エッセイ-27 ストイックになり過ぎたテキストサイト制作者と読者

2004年3月1日執筆


ストイックになり過ぎたテキストサイト制作者と読者

 いわゆる“ホームページ”に関してのニュースはほとんどがblogに関してのものになった。livedoorBlog、ココログ、JUGEM、はてなダイアリーなど。ニュースの中にテキストサイトという言葉は含まれていない。見ている方は同じものに思えるかもしれないが、メディアも作っている方も少し違うと考えている。
 作り手の私から見ると、明らかに現在、blogは隆盛で、テキストサイトは下火である。いったい両者の何が違い、なぜ文章を見せるという目的は同じなのにこれほど勢いに差が付いてしまったのだろうか。

 テキストサイトの特徴、あるいは売りは、基本的に「面白い」ことである。カーセックスを覗いていたら、素っ裸の男が木刀を持って出てきて追いかけられたなど、書き手は読者を面白がらせようとして文章を書いている。メモ書きにも報告にも日記にも感想にも使える、とにかく自由度が高いblogと決定的に違うのがここだ。大抵の読者は、サイトの紹介文に“テキストサイト”という看板が付いていたら、そのサイトには面白い文章――笑える文章と言ってもいいかもしれないが、そういうものが置いてあると思うのだ。
 だからこそなのだが、メールでも制作者の掲示板でも、あるいはまったく別の掲示板でも「つまらない」という感想が送られることがある。面白いと思って見に来たのにつまらなかった。当然の感想と言える。しかしそのやりとりが制作者と読者の関係を、“店主と客”という、ややいびつなものに変えてしまった。制作者はなんとかして面白いと言ってもらいたい。サービス過多になる。一部の読者はサービスを受けて、制作者の文章を読んでいるのではなく“読んでやっている”と思うようになる。
 本来、ネット上で書き手は読み手と対等な関係なのに、パフォーマンスを披露するという内容なので評価をする人間がいないと成り立たず、どうしてもなにかしらの部分で読者に頭を下げる必要が出てくる。そして、アクセス数が多い者が力を得るという世界において、数と評価を与えられる読者が制作者よりはっきりと上に行ってしまった。

 結果、どういうことが起きたかというと、多数の制作者の心の中に「仕事の愚痴を書き続けたいとか、思いっきりフォントを大きくしたいといった自分の欲求を出来るだけ抑え、“客”の視点ですべてを考える」という意識が強く植え付けられた。そうしなければ“客”が呆れて去ってしまうからだ。実際、日記で愚痴っている制作者に対し、読者が掲示板で「あなたの愚痴など読みたくない。そんな日記ばかりでは読者に見捨てられる」と説教しているのを何度も見た。

「よいテキストサイトを作るためには」というようなサイトに行ってみよう。守るべきことにずらずらと並べられているのは、

  • enterだけのページを置くな
  • リンクの下線を消すな
  • フォントサイズを固定するな
  • フォントいじりはやめろ
  • 行間を空けすぎるのはやめろ

 などなど、読者から見てそうして欲しいという希望であって、制作者の意思はまったくない。啓蒙サイトだけではなく、読者が、開設したばかりのサイトの制作者に上のような注文を出す、あるいはそういった欠点をネタに笑いものにすることもある。たとえ、もう二度と立ち寄らないようなサイトであっても。

 上のような約束事は当然あってもいいと思う。正直言って、enterだけのページがあると無駄だなと思うし、字が極端に小さいと普通に読める大きさで書いてくれと思う。しかし、これは駄目、あれも駄目という決まり事がやたらと多いサイト作りというのは、果たして面白いのだろうか。
 字が小さい方がかっこいい、本のようにしたいのでenterだけのページは必要。侍魂に影響を受けたので、同じようなフォーマットでサイトを作りたい。こういった制作者の考えは“経験豊富な人間が持ち寄ったテキストサイト制作の常識”によって潰され、結果的に、彼らの何十人か、それとも何百人かはやる気を失って離れていってしまった。

 テキストサイトはこうあるべき(=面白い、新しい、読みやすい、など)という意識が、私を含めた制作者、読者共々強くなりすぎたと思う。とても息苦しい世界になってしまった。

読者の意識の差

 テキストサイト制作者と読者は“店主と客の関係”と書いたが、テキストサイトとblogでは、読者の意識も多少違う。
 まず、テキストサイトのごく一部の読者は、

「昔よりつまらないからやめろ」
「更新しないなら閉鎖しろ」

 という批難を普通にする。面白いことを書くとは限らず、更新をするもしないも自由なblogの制作者からすると、この言葉は驚きだろう。しかし、テキストサイト制作者からすればまったく驚きに値しない言葉なのである。
 何があるかわからない面白さを感じたい、たとえるなら見知らぬ街の商店街をぶらぶらしているのがblogの読者なら、欲しいものを頭に思い描いて特定の店に行くのがテキストサイトの読者だ。

「つまらない」→「せっかく来てやってるんだから面白い文章読ませろ」
「更新しないなら閉鎖しろ」→「何度も足運んでやってんだからいい加減更新しろ」

 ようするに、言葉は汚いかもしれないが批難の中にあるのは“固定客としての期待”なのである。期待が大きい分、裏切られた時の言葉が強くなる。blogにも固定客はいるだろうが、どうしてもこれが欲しいというものがない分、期待を裏切られた時の怒りは少ないだろう。

テキストサイトとblogの意識の違い

 ストイックなテキストサイトと違い、blogには、まだこれというルールはないように見える。テキストサイトのルールにどっぷりと漬かった私からすると、字は小さいし、画像が多くて重いし、やけに下に長いし、リンクは妙に多いしと言いたいことは山ほどあるが、「blogはこう書くべき」ということを声高に主張しているサイトは今のところない。制作者は緩やかな枠の中で自由に振る舞うことが許されている。

 テキストサイトとblogの作りの違いを簡単に説明するなら、テキストサイトはレースカー、blogは市販車だと言える。どちらも走ることが目的だが、レースカーの場合、後部座席(=重い画像やJavaScriptなど)はいらないから外すし、ガソリン(=ネタ)も一般的ではない、ドライバー(制作者)に求められる運転のレベル(=人を確実に面白がらせる)も高度だ。レースを見る観客(=読者)は時には応援し、時には罵倒し、ドライバーは観客の期待に応えて走り続ける。成功すれば名声が得られるが、プレッシャーに押し潰されたり、事故(誹謗中傷)にあったりしてレースの世界から完全に消える人も多い。
 市販車は、ジャパネットたかたで買った「ゴリラ(=ニュースティッカー)」を搭載するのも、後部座席にクッション(=JavaScript)を置くのも自由だ。当然、ガソリンもBGM(=フォント)も好きなものを使える。見ている人は特に危害がなければ文句を言わないし、内装のセンスがよかったり、運転がうまかったりすれば近づいて車のことを一緒に話したいと申し出る。どちらかが上でどちらかが下ということはない、ほぼ対等な関係だ。運転は義務ではなく、好きな時に走ることが出来る。走りに無理がないので事故の危険は少ない。

 テキストサイトはなんらかのプロへの登竜門だとか、テキストサイトを作ると確実に栄光への道が開けるというのならいいが、そうではないので、わざわざ面倒な準備をして危険を冒すよりも今のところ安全で作り手に優しいblogを選ぶ人が多いだろう。私も5年遅く生まれていたら、迷わずblogを選んでいた。今まではテキストサイトか日記サイトしか選択肢がなく、ユーザーが多いゆえにレベルの高いサイトが連立していたが、人材流出が始まったことによって盛り上がりが失われたと言える。

行き着く場所は同じかもしれない

 テキストサイトはがんじがらめでblogは自由と、かなりblogを持ち上げて書いたが、blogがどんなに優れていて、また隆盛を誇ったとしても、システム、思想共にいつか必ず壁に当たる日が来るだろう。

 ツールを使っているのは人間だ。サイトの作りや思想についてあれが違う、これが違うと書いても、テキストサイトとblogの行き着く所はもしかして一緒かもしれない。いや、行き着く所だけではなく、まったく同じ道を歩む可能性もある。blogはテキストサイトが進化した形というわけではないし、テキストサイトというものを知らずにblogを始めた人も大勢いるのだから。

 行き着いた先には、いったい何があるのだろうか。それとも何もないのだろうか。

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