番外編 初めての挑戦 1


 さっか道には「金田一の時に初めて出版界に足を踏み入れた」というような記述がある。これは正確に言うと間違っている(本の作者として、と書いてあるから間違いではないか)。金田一編から遡ることだいたい5、6年。ベルトコンベアに載って大量に流れてくる油まみれの車のギアを段ボール箱に詰め込みながら、今すぐ小説家になるのは難しいが、ゲームライターだったらなれるかもしれないと甘いことを考え、それに向かって突っ走った自分がいた。これから書くのは、十代の青年が体験したちょっと変わった世界のお話である。

 高校を出て専門学校に入って3日で辞めて約一年。
 私は近所の工場で車のギアを箱詰めするというバイトをしていた。流れてくる油まみれのギアたちをすばやく両手で掴み、部品が欠けたりしていないか見た後、薄いプラスティックの板に載せ、段ボール箱に詰めていく。8時間ひたすら同じ作業だ。
 仕事が終わると疲れた足を叩きながら書店でエロ本を立ち読みして、なぜか会社四季報も見ていって、家に帰った。当然、彼女などいなかったし、女友達もいなかったから、休みの日は部屋でテレビを見たり、ゲームセンターでメダルゲームをやったり。一日、一週間、一カ月がいつも同じサイクルで回っていた。
 たまに、友人の高松君の家に遊びに行った。彼はとにかく聞き上手だし、当時、唯一の理解者と言ってよかったらいろんな話をした。

 あの日、高松君の家を訪れた19歳の私は、いつものように喋りまくっていた。
「なんかさ、キャラクターの名前が変だよね。前はもっと現実的な名前付けてたじゃん。なんか売れてきて急にすかしてきたっていうかさ、読者を意識しすぎっていうの? 正直、引いたね。あと、トリックがいまいち。ストーリーも全然切れがないし。っていうか、このオチってなんなの?」
 高松君が住む六畳の部屋。ベッドと本棚、そしてPC-88MRが燦然と輝き、TMネットワークのCDと小林恭二の本が並んでいるのが印象的だ。私は、いわゆる新本格と呼ばれるミステリを手にしながら、ああだこうだとまくし立てた。これだけ偉そうに商業本を語っている人間の小説は、

「だれかあ、だれかあ、だれかあ! 助けてえっ!」
「死にたくないよおっ!」
「ぎゃああぁぁぁ! 私の子供が! ……ああ、どうして、どうして……」
「抵抗しようとして剣を待ちながら射殺された勇敢な人よ……」
「馬の叫び、馬の悲鳴、馬の、馬の、馬の」
「誰でもいい、私たちを救ってくれるのならば」
「どこに逃げればいいんだ……どこに逃げ場所があるんだ……」
「花は咲いている。なにも叫べないのに」
「本当にそんな人いるのかな。僕は信じられませんね」

 と、早く病院に電話した方がいいんじゃないかというもので(上の会話文は抜粋ではなく全部つながっています)、高松君も(こいつはいったいなんなんだろう)と思っていただろうが、彼は大人なので、私の言葉に適当に相づちを打ち、「ちょっとジュース持ってくる」と台所に向かった。
 すぐオレンジジュースとせんべいを持って上がってきて、しばらくの間、せんべいを食べることに二人は熱中した。店屋物を取る、とか、それほどの経済力がお互いにないので私が来ると高松君はいつも夕飯抜きになってしまうのだ。
「ところでさ」
 ジュースを飲み干し、ティッシュで口を拭いた後、私は言った。
「この間、山田(仮名)に会ったよ。あの東高(仮名)行った奴」
「ほう」
 山田君と私はクラスは一緒になったことはなかったが、彼も私も奇人で有名だったのでお互い認識していた。彼は中学卒業後に学区内有数の進学校に進み、私は県立の滑り止めである私立高校に単願で進んだ。
「バイト先の食堂でクリームパン食ってたら近づいてきて、『おまえ、工藤だろ? 久しぶりじゃん』とか言ってくるわけよ。で、『おまえ、フリーターなの?』って聞くから『そうだけど』って返事をしたら、『なんでフリーターなんてやってんの』って言ってくるわけ。『やりたいことがあるから』って答えたら、『ああ、風俗か。ソープ?』とか言ってきてさ」
「まあ、それもやりたいことには違いないわな」
 高松君はコップを持ち、笑いながら言った。
「いや、風俗じゃないって適当に誤魔化したら、あいつ、『俺は給料三分の二はソープに突っ込んでるからね。結構楽しいよ。こんなとこの正社員じゃ上見てもたかが知れてるし、遊んだ方がいいよ』って言って職場に戻っていったよ」
「へえ、そんなキャラじゃなかったけどな、あいつ」
「でも、なんだかんだと楽しそうだったよ」
 最後の一枚になったせんべいをパキンと二つに割り、しみじみと言った。
 バイトの日給は7500円だった。日払い制で、仕事が終わった後にプレハブの事務所に行って受け取っていた。換わりに職場の班長の印が押された出勤表を差し出す。私は仕事が終わって作業着の前ボタンをぱちんぱちんと外しながら、この出勤表を見るたびになんとなくみじめな気持ちになっていた。
 コピー用紙に書かれた、

 名前 工藤圭

 1日 7:45~5:00 印
 2日 7:45~5:00 印
 3日 7:45~5:00 印
 4日 7:45~5:00 印
 5日 7:45~5:00 印

 という文字。いかにもアルバイトである。
 他の職場でも似たようなことを感じていた。正社員たちは首にIDカードをぶら下げて私服で颯爽と歩いているのに、私を含めたアルバイトの人たちは使い回しの作業服を着て、マジックで名前が書かれたバッジを付けて、疲れた顔でコーヒーを飲んでいた。
 今はまだ19歳だからいいが、35歳の時も同じ環境にいたらどうしよう。私服姿で闊歩する若い女性社員を見ながら、

 名前 工藤圭

 1日 7:45~5:00 印
 2日 7:45~5:00 印
 3日 7:45~5:00 印
 4日 7:45~5:00 印
 5日 7:45~5:00 印

 と書かれたコピー用紙に印を押してもらうため自分より年下の正社員の所へ持って行くんだろうか。そして7500円をもらってほっとするんだろうか。35歳までいったらもう後戻りは出来ない。資格もないし、技能もないから走り続けるしかない。結婚なんてまず無理だろう。将来どうなるんだろう。
 不安不安不安と、頭の中は不安のオンパレードだった。貯金なんてない。遊興費と食費と国民年金が出ていくだけ。だから、自分でも書けそうな文章でお金を稼いでいる人間を見ると、「こいつなんかより俺の方が遥かに面白い」「俺だって誰かに見出されればそのまま有名になれる」と言いたくなったし、実際、高松君の部屋に行くたびに、面白くなかった商業本を笑いものにしていた。もしかすると才能のない自分が、それを知らずにプロを目指している愚かさを認めたくないというか、他人を見下さないと怖くて仕方がなかったのだ。プロを駄目だと言えれば、自分はこいつより面白いからいつかプロになれる、と口に出来る。それだけが心の拠り所だった。

 だが、そんな自分に嫌気が差し始めていた。評論家になるつもりはないし、他人の文句じゃ食っていけないだろう。他人のことをつまらないと言うなら、言うなりのものを見せないと駄目だ。
 私はこの日、ある決心をしていた。
「話は変わるけど、今日、本屋でゲームの本を読んでたんだよ。ファミコン通信とか」
「うん」
「でね、読んでいて思ったんだけど、俺にも書けるんじゃないかと思ったんだよね」
「ほう」
 高松君は(またいつもの……)と思ったことだろう。しかし、ここからがちょっと違った。
「それで、いくつか文章を書いて編集部に持ち込んでみようと思うんだ」
「ああ……」
 高松君は意外そうな顔をしてすぐに微笑み、ちょっと背筋を伸ばした後、リラックスするように肩を落として続けた。
「いいかもしれないね。やっぱり、文章で飯を食っていくとなるとそういう所とのコネも大事になってくるだろうし」
「だよね? 俺もそう思ったんだ。ここで人のことああだこうだ言っても俺の立場はなんにも変わらないもん。それだったら挑戦した方がいいよ。それにさ、もし駄目だったとしても俺は失うものなんてないしさ。実は、ちょっと当たりを付けてきたんだ。雑誌の後ろによくライター募集の広告あるじゃん。あれメモってきた」
「いいねぇ」
 いつも後ろ向きの話に付き合わされているが、今回は珍しく前向きなので、高松君も乗ってきてくれた。
「ファミコン通信とファミリーコンピューターマガジンは募集していないみたいなんだよな。で、あとはマルカツとハイスコア、ファミコン必勝本辺り」
「ハイスコアってゲームセンターのゲームの雑誌だよね」
「そうそう。だから、マルカツかファミコン必勝本か。あと、ゲームボーイっていう雑誌も募集していたんだ」
「ゲームボーイ?」
 高松君は眉間に皺を寄せた。当時のゲーム雑誌の隆盛ぶりはなかなかすごいものがあって、ファミマガ、ファミ通、マルカツ辺りは誰でも知っていたが、数が多すぎて拾えない雑誌も存在した。
「なんか聞いたことあるようなないようなって感じだね」
「実は買ってきたんだな」
 私はリュックからゲームボーイ誌を取り出した。ぱらぱらめくって高松君が大きな声を上げた。
「ああ、これか!」

 ファミマガの特徴は内容紹介のボリュームと裏技。ファミ通は点数制のレビュー。
 ゲームボーイは『中古ショップの買い取り値段情報が豊富』という、変化球の特徴を持つ雑誌だった。
 ゲームの内容紹介もそこそこに、真ん中から後ろにかけてはほとんどゲームショップの広告。確かソフマップも広告を出していて、(そうか、PCエンジンの天使の声IIの買い取り価格は1200円か)などちょっとマニアックな機器の買い取り価格を調べたものである。
「なんか、ここが一番いい気がするんだよね。文章も書きやすそうだし、一応、点数制のレビューもあるじゃん。だから、ひょっとしたらレビュアーになれるかもしれないしさ。どうだろ?」
 高松君は腕組みをして唸った後、言った。
「いいんじゃないかな。募集欄も一番大きいよね。だけど、こういうのはどの程度のレベルで雇ってもらえるもんなのかな」
 問題はそこである。大学の文学部でもないし、編集部にもコネもない。特にゲームがうまいというわけでもない。ようするに取り柄がないのだ。昔、BEEPというセガに力を入れていた雑誌があって、それには中学生のライターが記事を書いていた。中学生と言っても文章はきちんとしたもので、こいつはすげえなと思っていたのだが、私もあのぐらいの文章だったら書ける自信はあった。だが、文章以外の個性を要求されるとなるとちょっときつい。工場でバイトしている19歳なんてあまりにもありふれている。
「まあ、とりあえず応募してみるよ。やってみないとなんにもわかんないしさ」
 ため息をついてこめかみを右手の中指の爪で引っ掻き、私は続けた。
「なんか、俺って前向きだよね」
「あははは、そうだね」
 いつもの自画自賛で私と高松君は笑った。そして、私はライター募集の広告を見ると、ぱたんと雑誌を閉じた。

 私にとっての初めての“挑戦”が始まろうとしていた。

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