第七十八回 トイレでの遭遇


 肉と野菜と魚を適当に皿に盛りつけていると、ステージ上の女性が喋り始めた。どうやら会が始まるらしいと、慌ててステージを見る。
 女性は、これから角川書店アニメ・コミック事業部の新年会を開催します、というようなことを男性と掛け合いながら言った後、よく通る声で名乗った。
「わたくし、本日司会を務めさせていただきます、三石琴乃と申します」

(……みついしことの、みついしことの)

 口を開けっぱなしで心の中で呟く。しばらくしてひらめいた。

(わかった、ポッカつぶポテトスープの人だ!)

 人によっては、美少女戦士セーラームーンのセーラームーン役の人とか、新世紀エヴァンゲリオンの葛城ミサト役の人とか、いろんな言い方があると思うが、私はセーラームーンもエヴァンゲリオンもまともに見たことがないので、ポッカつぶポテトスープのCMで歌を歌っている人という認識だった。いつだったか、写真週刊誌で『セーラームーンの声優の素顔を紹介』みたいな特集があり、それを見ていたからなんとなく見覚えがあったのだ。とにかく、私でも知っているぐらい有名な声優さんだ。
 もし、気持ちに余裕があり、近くに友人がいたら間違いなく、
「あ! あの人、あれ、あれだ、あの、ほら、セーラームーンの人、あの人、絶対そう、ほら、ポッカつぶポテトスープの、つぶポテトはなぜうまいとか歌ってる」
 と大騒ぎしていたと思うが、私の周りにいる人は全員気持ちに余裕があって一人ではないのに、セーラームーンのセの字も発していない。ステージに目をやることもなく、皿を片手に談笑している。
(珍しくないのかな。セーラームーンの人が目の前で司会しているって、凄いような気がするんだけど)
 心の中で首を捻りながら、ステージ横へと戻った。
 この後、角川歴彦社長の挨拶が行われ、皿をテーブルに置いて拍手をしていると、乾杯の音頭を誰かが取るという話になった。こういう所で乾杯の音頭を取れるっていうのはかなりの人だろうと思いつつ、ステージに注目する。
「それでは、%#$さん、こちらへ」
 セーラームーンの人に紹介されて出てきたのはベースボールキャップをかぶったTシャツ姿の五十代ぐらいの男性だった。会場から歓声が上がって、名前が聞こえない。
(随分ラフな格好しているけど、あの人は何者なんだろう)
 ワインに口をつけて、男性の顔を凝視する。彼は笑いながら、しばらくの間、あちらこちらに頭を下げていたが、やがてマイクの前に立って少し体を前に倒して言った。
「どうも、こういう場に立っていいのかわからないのですが、やってくれと言われたので来ました」
 そして、帽子を取ってスキンヘッドを一度触って頭を下げる。会場がどっと沸いたのを確認してから、ゆっくりと口を開いた。
「とみのよしゆきです」

(とみのよしゆき……)

 誰? と言いそうになったが、頭の中にあるひらがなが一文字ずつ漢字に変わっていって、思わずグラスから口を離した。

(富野よしゆき……富野由悠季か!)

 いつの時代の十代も取り込んでいく脅威のアニメ、『機動戦士ガンダム』の原作者であり監督だ! 宇宙戦艦ヤマト派の私でも知っている。
 もし小学校の時の友人の竹内君と携帯で連絡が取れたら、
「あ! あの人、あれ、あれだ、あの、ほら、ガンダムの人、あの人、絶対そう、おまえ集めてたじゃん、なんだっけ、あ、ガンプラ、ザクとか」
 と間違いなく電話機に向かって叫んでいたと思うが、周囲の人はまったく驚いている様子はない。セーラームーンの人が司会をしていても誰も前に集まらず、機動戦士ガンダムの原作者が出て来ても心を乱さない。これが業界人なのか。
 有名人が次々出てくることよりも、その有名人を見ても特に驚きもしない人たちに圧倒されてしまい、私はため息をついた。
 ふとテーブルの周囲を見ると、相変わらず女性ばかりが談笑している。さっきよりも人数が増えているみたいで十人ぐらいはいるだろうか。
「いやあ、なんかすごいですね、出版社の新年会って」
 と、気楽に話し掛けられればいいのだろうが、(あの人ってなに?)という視線は相変わらず突き刺さったままだし、全員、パーティドレスを着た小説家ということに対しても気後れしてしまう。私は考え込んだ。
(まず話題だよな。司会の人ってセーラームーンの人ですよね、っていうのはどうなんだろう)
 だが、目の前にいる皆さんがセーラームーンに興味があるとはとても思えない。だいたい私自身も興味がないのだから、切り出したところでどうにも発展しないだろう。
(そういう服ってどこら辺で買ってくるんですか? ってのはどうかな)
 派手なアームウォーマーとでも言うのだろうか。よく名前がわからないのだが、腕にピンク色の毛がふさふさした布を巻いている小さい顔の若い女性が、先ほどからどこか怯えたような表情で私のことを見ている。以前、バイト初日の自己紹介で「UFOとか好きです」と言った時に、似たような目で見られた記憶がある。話し掛けた途端に逃げられそうだ。
 いくら考えてもいいきっかけが思い浮かばず、救いを求めるように周囲を見回したが、Oさんもいなければ後藤さんもいない。だんだんといるのがつらくなってきて、ちょうど用を足したくなってきたのでトイレに行くことにした。

(はぁ……)
 ネクタイを緩めて髪を掻き上げた後、ファスナーを下ろした。
 すべてにおいて疲れる。場違いなんだ、きっと。
 当たり前と言えばそうなのだが、授賞式の前後、うちのサイトのアドレスが書かれた名刺を渡して自己紹介をしても、誰も『テキスト王』なんて知らなかった。実はちょっとだけ、「え、あのテキスト王の人ですか? ZEROの法則とか見ました!」という反応があるんじゃないかと期待していたので、失望していた。紙媒体とネットはまるで違う世界で、俺は所詮井の中の蛙なんだなぁということがよくわかった。
 口を開けながら天井を見る。これからどうしようか。戻っても、ひとりぼっちだし。
(……)
 隣に人が来たので、ふと顔を見た。

(!!)

 見覚えのある顔。そしてベースボールキャップ。
 なんと、先ほどステージにいた富野由悠季先生が私の隣で用を足し始めた。
 私は呆気にとられ、ただ黙って唾を飲み込んだ。そして目を左右に動かし、こう考えた。

(うわぁ、まじかよ、どうしよう)

 トイレには二人しかいない。こんな機会は滅多にないどころか、もう二度とないだろう。是非何か言いたい。
 だが大きな問題があった。私はガンダムがあまり好きではないのだ。
 友人のガンダムファンからヤマトを馬鹿にされたということもあったし、土日は野球をやっていたため、ガンプラを買いに行けなかった、ブームに乗ることが出来なかったというひがみもあった。
「あの、ガンダム大好きでした」
 と言えればいいが、映画の三部作をテレビで見た程度でそんなこと軽々しく口にしていいのか。
「くりいむレモンって、映画のセイラさんのシャワーシーンを観客がカメラで撮っていたことが企画のきっかけになったってご存じでしたか?」
 という小ネタの披露も考えたが、そんなことを見ず知らずの男にいきなり言われても富野先生は困ってしまうだろうし、既に知っている可能性の方が高い。

(とにかく、なんでもいいからなんか言おう)

 私は目を横に向けて富野先生の顔を見た。

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