第八十九回 二つの決断 後編


 お互いにわかっていた結論とは言え、嫌いになったわけでもないのに“別れる”という言葉が出てしまったのは二人にとってショックだった。しっかりとした生活基盤がないのだから結婚など出来るはずもないという至極当然の論理も、好きな人を目の前にした状況では不条理なものに思えて仕方がなかった。
 彩実ちゃんが手のひらで幾度となく涙を拭い、「で、でも……」とそれだけ言って私の顔を見た。
「だって……仕方がないじゃんか」
 私は、泣きながら喋るのは男としてみっともないと思ったので、唾を飲み込んでから天井見て、気持ちを少し落ち着かせてから言った。
「お母さんの言うとおりだと思う。俺はこれからどうなるかわからないし、それに、お父さんとお母さんに反対されて、それで彩実ちゃんと結婚するなんて俺には出来ないよ」
 抑えていた涙がまた溢れてきた。喋っている自分と泣いている自分が剥離していて、喋り終わると“彩実ちゃんと別れるのがつらくて泣いてしまう自分”が出てきてしまう。
「で……でも……圭くんばっかり傷ついて……」
 彩実ちゃんはそう言った後、私の目を見て続けた。
「わたしは……わたしは納得出来ない。こんな形で別れるなんて……」
 彼女のその言葉を聞いて、一生懸命かっこうつけてなんとか隠そうとしていた自分の本心が鎌首をもたげてきた。
「俺だって別れたくない」
 本当は、頼むから別れないでくれと私の方から土下座をしたい気分だった。これほどまでに自分の言葉を聞いてくれ、また理解してくれる女性はもう二度と現れないだろう。しかし、私は母親を亡くしている。だから、彼女の母親に自分の子供のことで悲しい経験をさせたくなかった。私から別れたくないとは絶対に言えなかった。

 しばらく沈黙して、彩実ちゃんは大きく深呼吸をした後、言った。

「やっぱり……別れるのは嫌。もっともっと一緒にいたいし、お父さんとお母さんを説得したい」
 彼女の言葉を聞いて、心の底からほっとした。私は彼女の気持ちを引き寄せるために間をあけずに言った。
「俺も理解してもらえるように頑張る。だから、別れるのはやめよう」
「……」
 当然、うんと即答してくれると思っていたが、彼女は少し迷っているようだった。唇を噛んだり、鼻をすすったりしながら、俯いて考え込んでいる。
「……大丈夫かな?」
 顔を上げて、不安げな表情で私を見た。
「きっと大丈夫だよ」
 私はそう頷いて、駄目を押すようにもう一度言った。
「だから別れるのはやめよう」
「……うん」
 彩実ちゃんの声は聴き取れないほど小さかった。今は私が目の前にいるから私の気持ちをより強く感じてしまうと自覚しているのだろう。もし、両親の目の前で再び反対されたらどういう気持ちになるのか、両親の話を聞く前に簡単に頷いてしまっていいのか、そういった部分で彼女は相当迷っていたのだと思う。

 翌日、異人館街にある喫茶店でコーヒーを飲んだ後、私たちは帰路に就いた。
 洒落た店内で、対面に座っている彼女の愛らしい笑顔を見ていると、昨日、別れるという結論を出さずに本当によかったと思った。
「どうしたの?」
 新幹線の車内で、窓際に座っていた彩実ちゃんが不思議そうな顔で言った。
「なにが?」
「楽しそうだから」
「んー、楽しいっていうわけじゃないけどさ。帰ってから講談社に原稿を送って、Aさんから電話が来て、いろいろ決めて、そうすれば俺の本が出るわけだから。そうなれば彩実ちゃんのお母さんも少しは理解してくれるかな、と思って」
 彩実ちゃんは白い歯を見せて笑った。
「うふふ、なんか心配事増やしちゃったね。ごめん。もう親のことは言わないから、圭くんは圭くんらしく、頑張ってね」
「わかった」
 私は彼女の気持ちをつなぎ止めたことが単純に嬉しかった。昨日のことは、きっといつか笑い話になる、そう信じていた。

 横浜で夕食をとった後に彩実ちゃんと別れ、東海道、小田急と乗り継ぎ、私は重いデイバッグを片手で持ちながら家の玄関を開けた。
(なんか結局、ノートパソコンって全然使わなかった気がするな)
 まあ、いい運動になったからいいかと玄関におろし、トイレに行って用を足した後、部屋に入りパソコンを起動した。たった一日留守にしただけだったのに、システムファンの音が懐かしい。
 パソコンデスクの前で大きく伸びをした後、頭を後ろに倒して呟く。
「溜まってるかなぁ」
 当時のテキスト王は“毎日に近い更新”が売りだった。それゆえ、今のように感想メールがひと月に一通ではなく、一時間に一通ぐらいの勢いで届いていて、また、掲示板もあったので相当メッセージが溜まっているだろうと思っていた。頭の位置を戻して、返事が大変だぞと気合いを入れる。
 もっさりとした動作でOSが立ち上がり、メーラーのアイコンをダブルクリックして受信ボタンを押す。

『はじめまして!』
『ZEROの法則を読みました』
『感想です』
『相互リンク希望です』
『雑誌掲載のお願い』

 などのタイトルのメールが次々と表示される。
「ん?」
 一通だけタイトルのないメールがあった。送信者の名前はわからず、メールアドレスにもまったく見覚えがない。スパムだろうか? マウスカーソルをそのメールに当てて、ダブルクリックをした。

やる気がないならやめたら?

 メールにはたった一行、そう書いてあった。
(は? やる気がないって、なんのやる気だよ)
 右手で顎をさすりながらそう思って、口を尖らす。間違いメールかと思ったが宛先には確かに私のアドレスが書かれている。首を捻って鼻からため息を吐き出し、未読のメールをすべて読んだ後、今度は掲示板を見た。

もうやめた方がいいですよ

 そんなタイトルが目に入る。

【名  前】匿名
【タイトル】もうやめた方がいいですよ
a@a.com
【メッセージ】
あまり更新される気がないようですね。
プロになられてやる気がなくなってしまったのでしょうか? もしそうならホームページを閉じられた方がいいと思いますよ。更新する気もないのにホームページをそのままにしているのは見苦しいです。

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