第八十八回 二つの決断 前編


「ごめんなさい」

 そう謝った彼女の目は真っ赤だった。顔を上げたと同時に鼻をすすり、そして肩を小刻みに揺らして細切れに息を吐く。
 泣き出したのは突然のことだったとは言え、私は驚きはしなかった。実は新幹線に乗っている時から様子がおかしかったのだ。ふと窓の外を見て長い時間物思いにふけっていたり、時折、ため息をついていたりしていた。私がトイレなどから戻ってくると、今まで見たことがないほど寂しそうな様子でぽつんとしていた。
「お父さんとお母さんになにか言われたんだろ?」
 私がそう尋ねると、彩実ちゃんは小さく頷いた。
「なんて言われたの?」
「……」
 しばらく、なにも口に出来なかった彼女だったが、やがて唇を震わせながら途切れ途切れに話し始めた。
「お……お父さんが……わたしに言ったの。彼と付き合うのは反対だって」

(……)

 あの日の様子を思い起こせば、驚くことではないだろう。やはりという気がしたし、仕方のないことなのかもなと思った。だが、理由がわからなかった。あの日、ガチガチに緊張していたとは言え、無礼なことを言ったり、失礼な行動を取ったということはなかったはずだ。私のなにがそんなに気に入らなかったんだろうか。
 私は彩実ちゃんが口を開くのを待った。
「も……もし、どうしても結婚したいのなら……勘当するって……。いつも、わたしの行動に反対するのはお母さんで、お父さんは必ず応援してくれていた。そのお父さんに反対されたことが……ショックで……」
 彩実ちゃんはそう言って大きく息を吐き出すと、声を震わせながら続けた。
「お、お母さんは……」
「うん」
 私は彼女の頭を撫でながら覚悟をした。きっと、母親の口から、なぜ私と付き合うことに反対するのか、決定的な理由が述べられたに違いない。
「お母さんはこう言ったの」
 彩実ちゃんは何度か鼻をすすり、流れ出た涙を手のひらでこするように拭いた後、口を開いた。
「彼の仕事はあまりにも不安定すぎるって」
「……」
「いい時もあるだろうけど、悪い時の方が多いだろう。もし収入がなくなったらどうやって暮らしていくのか、彼と結婚したら、おまえが苦労することが目に見える。苦労することがわかっているのに嫁に出す親はいないって……」

(……)

 彼女と付き合っていて、今まで未来にはいろいろな景色が見えていた。本を何冊も書いている私がいて、子供を抱いている彼女がいて、私の本が映画になったり、漫画になったりして、そして豊かな暮らしを送っている光景。
 だが、それらは所詮、私が心の中で描いた『絵』に過ぎない。今は大きな出版社の編集者と付き合いがあるかもしれない。明日、その関係が崩れることはないだろう。しかし、半年後はどうか。一年後は? 第一、私は自分名義の本をまだ一冊も出していないのだ。私には小説家として約束された未来などないのである。
 私は彼女の母親の言葉に対してなにも言えなかった。実際にその通りだし、反論の余地はまったくない。どうやって二人で生活していくのか、そんな具体的なプランもない。今の調子なら仕事が途切れることはないだろう、だったら一生やっていける、それなら結婚だって出来る、私の考えなどその程度だった。
 夢の中で描いた未来予想図はあっけなく破られ、“約束された収入など何一つ存在しない”というあまりにも不安定な現実の未来が、とうとう姿を現してしまった。

 彼女は相変わらず泣いていた。両手で顔を覆ったかと思うと、何度も何度も咳き込み、そして鼻をすする。
 彼女にもわかっていたのだろう。母親から突きつけられた“理由”はもうどうしようもないのだ。
 私は泣きじゃくる彼女になにかを声を掛けようと懸命に考えていた。

『小説で食えなくても、その時は他の仕事で頑張る』

 もう少しで口から出そうだった。だが出せなかった。

(他の仕事っていったいなんだ?)
 私は膝の上に置いていた左を握り締め、俯いて思った。
(アルバイト? この年でアルバイトをして結婚をしてそんなんでやっていけるわけがないだろう。じゃあ、就職をするのか。だったら小説はどうなる? 小説家になりたいと思って小学校5年の時からやってきたんだろ。頼むからまともに働いてくれ、就職してくれと泣きながら説得してきた母親を無視してバイトを続けて、その母親は癌の治療でモルヒネを投与されて幻覚で俺の本を見て、そして死んだ。母親がこんなに早く亡くなったのはおまえのせいだ、親戚みんなにそう言われたんだ。だけど、“お母さんの遺影の前に本当の俺の本を置こう” そう思って立ち直って、初めて一心不乱に新人賞の原稿を書いて、それが賞を取ってここまできたんじゃないか。確かに今一番大切なのは彼女だ。だけど……)
 私は改めて彼女の泣き顔を見た。
 彩実ちゃんが好きなのは、きっと、小説家になるという夢に向かって進んでいる私だろう。そして、きっと私の心の中もわかっているはずだ。私は愚直なまでにここまで見続けてきた夢を諦めることは到底出来ない。
「け……圭くんは……や……優しいから……だから」
 彩実ちゃんは溢れ出る涙を拭こうともせず、そのフレーズを何回も何回も繰り返した。それから先はどうしても言葉にならないようだった。
 そんな彼女を見ているうちに、私の視界はぼやけて、そして大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。正直、人が亡くなった時以外に人前で泣いたのは、中学の時、岩田君(仮名)を片手で持ち上げて肩の筋肉を断裂した時以来で、自分自身で驚いてしまったがどうにも涙は止まらなかった。
(もうどうしようもないじゃんか……)
 悔しいというより情けなかった。こんないい年をして、娘が苦労するのが目に見えると言われたことにまったく反論が出来ないのだ。
 二人で俯きながらただ泣いた。彼女はもうなにも言うことはないし、私はなにも言えない。隣同士で座って、泣くことしか出来なかった。
 彩実ちゃんにはわかっていただろう。私が、彼女の両親の反対を押し切れるようなものをなに一つ持っていないことを。そして、私が彼女のことを考えるなら、もう選択肢は一つしかないことも。
「……だ、だったら」
 止まらない涙を拭いて、私はなんとかそう口にした。

「も、もう……別れるしか……ないよね」

 彼女がなぜ泣いたのか。それは、私の結論がわかっていたからだろう。
 私は、彩実ちゃんは苦労とはまったく縁のない人間だと考えていた。彼女の周りにいるすべての人に祝福されて結婚し、子供を産んで、人生の最後は子供と孫に囲まれて安らかに迎える。そういう一生を送る人だと思っていた。だが皮肉なことに、彼女と付き合っている私が、そんな彼女の約束された未来を狂わす可能性があることがわかった。彼女には絶対に幸せになってほしい。それならば、私が身を引くしかもう方法はなかった。

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