第九十三回 17年


 彩実ちゃんにメールを出すためにネットスケープのメーラーを立ち上げてた後、私はしばらく考え込んだ。
 まず、本当に彼女の気持ちは自分から離れているのだろうか。もし、そんなことはなく、たまたま私がそう思い込んでしまっただけというのなら、ここで変なメールを送ってしまうことは藪から蛇を出す可能性もある。

「どうしてそんなこと言うの!? そんなにわたしのことが信じられないの?」

 彼女の怒った顔が思い浮かぶ。

 倦怠期ということも考えられる。毎日毎日、何通もメールのやりとりをして、電話をして、会って、あれやこれやと盛り上がりつつ話していたわけだから、両親への紹介を済ませて、旅行へ行って、一段落したのではないだろうか。そんなときに、男からぐたぐだ書かれたメールが届いたら、鬱陶しくて仕方がないだろう。これもやぶ蛇間違いなしだ。

「気持ちが重くなってしまったの。ごめんなさい」

(……やっぱやめようか)
 しかし、「うん、そうだ。やめよう」で済ませられないものが、自分の心に蔓延していた。自分で書いた『ZEROの法則』に当てはまっているような気がするし、そうならそうで、今の状態を続けるのは彼女も苦しいだろうと思う。それならば、やはり彼女の気持ちを確かめてみるしかないではないか。
「……」
 私は意を決してメールを書き始めた。

 彩実ちゃんへ

 仕事大変そうだね。体の方は大丈夫? 無理するなよ。
 俺の方は、明日、講談社へ行くことなった。多分、これで本が出るかどうか決まると思う。なんだかちょっと緊張するね。うまくいくといいなぁ。とにかく、頑張って行ってくる。
 でも、最近、なんだか不安なんだ。悪いことがいろいろあってさ、なんか気持ちも凹んでいるし、そういうときってなにやってもだいたい駄目なんだ。今まではうまくいっていたけど……。

 なんかね、今、自分が孤独な気がして仕方がないんだ。サイトを開いていろんな人が集まってきてくれているけど、すぐ近くに人がいない気がするんだ。こうやってメールを書いていても一人だし、仕事をやる時も一人。いつも一人だなぁって。なんでこんなこと思うのかな。

 まあ、とにかく明日行ってくるね。それじゃまたね。

 取ってつけたような労りの後、実は精神的に脆い俺を今こそ見てくれ、みたいなアピールが炸裂しており、気持ちが離れかけている女性が受け取ったらさぞかし嫌なメールだろう。でも、だからこそ、はっきりとした反応が返ってくる期待があった。もう駄目なら、このメールを読んで「ごめんなさい。さようなら」と返してくるだろうし、私の気のせいだったら、「そんなことないよ! わたしが一緒にいるじゃん」と言ってくるだろう。どっちなのか、それはわからない。とにかく賭けてみるしかない。
 額に右手の指を付けながら、自分のメールを何度か繰り返し読んだ後、送信ボタンを押し、私はウインドウズをシャットダウンした。

 翌日は快晴だった。
 脂性のため、髪は朝洗うことにしている。いつものシャンプーで洗った後、顔を洗い、歯を磨き、ひげを剃ってクリームをつけ、服を着て鏡を見た。
「よし」
 女性に会うわけでもないのに、そう気合いを入れた。頬を両手で何回も叩いた。そして、いつものナップザックを背に家を出て、各駅電車に乗った。
「ママぁ、見たい見たい見たい」
 私の隣にいる小さな男の子が足をばたばたさせながらアピールしている。どうやら、運転席を見たいと言っているようだった。若いお母さんはかなり渋っていたが、少しだけだよと男の子の脇の下に手を入れて持ち上げた。
 私は電車の一番前の車両に乗るのが好きで、この日も一番前に乗って、手すりに手を掛けながら電車の計器などを見ていた。
(あと30分ぐらいかな)
 ミネラルウォーターのペットボトルの蓋を開け、ラッパ飲みをする。別に飲みたくて飲んでいるわけではない。なにかしていないと落ち着かないのだ。
「スィンコー」
 と、半角カナっぽい言い方の、運転手さんの指さし確認する声が聞こえた。電車が進むごとに、私の夢が近づいてくる。本当に今日決まるのだ。小説家として本を出せるかどうか。

 17年。

 小説家になりたいと思って、小学校五年生の時、10枚の推理小説『消えた名画』を書いてから、ここまで来るのに17年かかった。
 この時間が小説家としての足がかりを掴むに至った時間として早いのか遅いのか、それはわからない。しかし、近所の文房具店から10枚100円の原稿用紙を買ってきて、「密室」という熟語の「密」という字の書き方を国語辞典で調べながら自分が主役の推理小説を書き、友達に読んでもらうというのが最初だったことを考えると、ものすごく長い時間が経ったように思える。

 学級通信に載せてもらおうと思って先生に渡した第二作目の推理小説は、「どう見ても学級通信向けじゃない」という理由で先生のロッカーに入れっぱなしだった。生徒会で劇をやるというので書いた自信満々の台本は、「意味がよくわからない」と言われ、副会長が書いた台本と差し替えになった。オリジナルビデオドラマを撮るために書き上げたシナリオは、誰かが学校の校門の上に置き忘れて風に飛ばされドブに落ちていた。ライターを募集している出版社に片っ端から履歴書を送ったら「今回はご縁が――」という書き出しで全部そのまま戻ってきた。
 不思議なもので、笑われたこと、馬鹿にされたこと、振り返ってみると悪い思い出しか出てこない。悪いことばっかりで17年。自分はいったいなにを信じて、小説家になりたいなどと言い続けてきたんだろう。

(……)

 不意に彩実ちゃんの顔が思い浮かんだ。
 17年間、周りに迷惑を掛け続けながらも、ただひたすらに夢を追い続けてよかったと思える、唯一の存在だ。もし、自分がそんな馬鹿な人間でなければ、きっと彼女とは親しくなれなかっただろう。
 だが、彼女が私に抱いた好意の源が、今は最大の問題になっている。赤の他人であれば、ひたすら夢を追い続けている人を見たら純粋に応援するだろう。しかし、身内になったらそれが出来るだろうか。応援し、応援され続けるだけではご飯は食べられないのだ。
 先ほどまで感じていた高揚感が一転、不安感に変わる。
 昨日のメール。彼女が風邪でもひいていない限り、今日、返事が届くだろう。いったい、あのメールに対して彼女はどんな答えを返してくれるのだろうか。
 彼女がメールを読んで、悩んでいる姿が思い浮かぶ。彼女の気持ちがどうであれ、恋人からあんなメールをもらえば悩むに決まっている。もしかして、私は彼女が悩むことを望んでメールを送ったのかもしれない。困らせて気を惹こうと。まるで子供のように。
 私にはなんとなく予感があった。もし、原稿の方がうまくいけば、彼女の返事も私にとってよい内容だと思う。しかし、原稿が駄目なら、彼女の返事もよくないものだろう。そう考えると、今日、私の今後の運命が決まると言ってもよかった。
 もうすぐ新宿だ。そこから講談社がある護国寺へは、今みたいにいろいろと考えていればあっという間だろう。
 時計を見る。約束の時間より1時間30分前。このままで行けば、1時間近く前に到着するかもしれない。

 アナウンスが新宿到着を告げた。
 置いていたナップザックを背負って、私は両手で髪を掻き上げた。そして、ドアが開いたと同時に、右足を前に踏み出した。

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