第九十二回 不安


 彼女の電話番号が液晶ディスプレイを走るように表示され、私は自分の携帯をゆっくりと耳に当てた。

 トゥルルルルル

(いち……)

 トゥルルルルル

(に……)

 トゥルルルルル

(さん……)

 自分が、電話するときに呼び出し音の回数を数えるのは、イライラしている時か不安な時のどちらかだ。今回は後の方だろう。仮に彼女が出たとしても第一声が決まっていない。いや、相手は自分の彼女なのに第一声はどうしようなどと考えている時点で、この電話はかけるべきではないものという気がする。

 トゥルルルルル

(よん……)

 トゥルルルルル

(ご……)

 いつも、私からの電話は0.5秒ぐらいで出てくれるのに、もう十秒以上が経過している。
(もう切ろう、なんか変なことになる前に切ろう)
 急に恐くなってきて、携帯を耳から離した瞬間、プツッという音がした

「あ、も……」

「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」

 肩に入っていた力が抜けて、鼻からため息を吐き出し、左手で髪を掻きむしった。
 予想通りというか、電話はつながらなかった。流れが悪い時なんていうのは大抵こんなものだ。おかしなことにならなかったということに対しては少しほっとしたが、でも、時間が経つにつれてなんだか虚しくなってきた。
「やっぱな」
 そう言って自嘲気味に笑った。手に持ってくるくると回していた電話を放り投げて、仰向けになって天井を見つめた。
 別れ話が出て、だけどなんとか頑張っていくとまとまった。二人で泣いた後、二人で笑った。雨降って地固まるということわざもある。困難を乗り越えて幸せになるカップルもたくさんいるだろう。しかし、困難を乗り越えるためにはなんらかの力が必要なのではないか。

「来月、式を挙げよう」

 かけようとしている電話で、いきなりそんなことを言えればかっこいいと思う。そう言える空気が漂っていなくても“なんらかの力”として後押ししてくれる気がする。しかし、それもこれも、毎月まとまった収入があり、ある程度決められた未来があり、自分が着るタキシードと彼女に渡す指輪があり、二人で住むところを見つけられればの話だろう。だが、私にはそんなもの、微塵もないのだ。
 月にもらえるお金はバラバラ。入ってくるのは実際に仕事をしてから何カ月も経ったあと。自分の本はまだ一冊も出ていない。今後、定期的に仕事がある保障がない。手に職がない。資格もない。飛び抜けた学歴もない。
 もし物を書くのをやめたとしても十代後半ならまだ潰しはきくだろう。でももう二十代後半なのだ。彼女からすれば私と共に歩むという選択をすることは、ひとりチキンレースの車に同乗するようなものだ。
 将来の展望が“夢”しかないという男の姿を、なんらかのきっかけでふと冷静に見てしまった時、結婚適齢期の女性はどう思うのだろうか。
「つながらないような気がしていたんだよ」
 自分の不安を誰かに伝えたくて、でも相手がいないから、そう呟いた。
 きっと折り返しの電話もないだろう。折り返しはメールで行われ、そこにはなぜ電話に出られなかったのかということ、そして折り返せなかった理由が書かれるが、「今度電話するね」の一言はまず書かれることはない。

「どうしたのぉ……?」

 落ち込んでいる私を心配した彼女が、泣き出しそうな声でそんな電話をかけてくることはもうないのだ、きっと。
(……)
 私はすごく嫌な気持ちになって、放り投げた携帯を手に取り、電源を切った。最後の抵抗のつもりだった。

 翌日の昼過ぎ、彼女からのこんなようなメールが届いた。

 圭くん、おはよう(^^)(はやくないけど……)
 昨日、ごめんね。会社の人たちと飲み会があって、家に帰ったの、0時過ぎていたからこの時間だとちょっと電話できないなあって……。
 最近、ちょっとお仕事が忙しくなってきたんだ。今までが暇すぎっていう話もあるんだけどっ。
 それじゃまたね。

(やっぱり……)
 思わず右のひじを机について、右手でこめかみのあたりを掴んだ。今度電話するねどころか、こっちが電話した理由を聞くこともなく、あっさり終わってる。いつもなら、この日の何時と決めている電話を突然かけたのだ。なんかあったのかと心配してくれたっていいだろう。
 昨日の夜、携帯の電源を切ったのは、

「電話したけどつながらなくて……。もしかして怒ってるのかな……。もしそうだったらごめんね。今日、またかけるね」

 なんていう風に言わせたいからだったのだが、それを言わせたところでどうなるわけでもなく、だいたいかけてこなかったのだから不発もいいところだ。自分の自己中心的な面を再確認しただけで終わった。

 もし、一連の流れをネットの恋愛相談室みたいなフォーラムで質問したとしたら、
「社会人なんだからいろいろありますよ。飲み会の後だって、彼女は電話しようと思っていたわけでしょ? もっと構えていたらどうですか」
 こんなアドバイスが返ってくるような気がする。でも、当事者にはわかるのだ。空気の変化が。明らかに、あの日から空気は変わった。まとまったように思えても、実際はまとまっていなかったのだ。だが、もしかしたらもっと以前から――彼女にはなにか思うところがあったのかもしれない。いきなり変わったのではなく、少しずつ積み重なっていたすれ違いがはっきりと形になったのかも――。

 トゥルルルルルル――

 マウスをクリックしてネットスケープのメーラーを閉じると、電話がかかってきた。これは勧誘電話ではなく、大事な電話かなという気がしたので床に手をついてすぐに立ち上がり、大またで居間へ行って受話器を取った。
「もしもし工藤ですけど」
「講談社のAです」
「あ、どうも」
 思わず髪を掻きあげて、首をちょこんと前に出した。久しぶりにAさんの声を聞いた気がする。
「原稿読んだよ」
「ありがとうございます」
「えーとね、んじゃあ、明日講談社の方に来てもらえるかな。時間はどうしようか。1時ぐらいでいいか。じゃよろしく」
「あ、はぁ」

 電話は私の返事が終わったと同時にぶつりと切れた。

 ――ついに来るべき時が来た。

 書きかけではなく、完成した原稿を渡し、それを読んだという電話がかかってきた。
 小説家としてデビューできるかどうか。小学生からの夢。十数年も思い続けてきた夢。叶うかどうか、明日決まる。
(よりによってこんな時にな……)
 もし、彩実ちゃんとうまくいっていたら、真っ先に彼女に電話するだろう。電話ができなかったらすぐにメールするだろう。だが、そんな気にはまったくなれない。電話することやメールを出すことが彼女にとって迷惑なんじゃないかと考えてしまう。そして恐いのだ。明日決まると伝えたときの反応が。もし、私が考えているように、彼女の気持ちが私から離れているのだとしたら、きっとその時に悟ってしまうだろう。だが――彼女の今の気持ちを知るには最高のチャンスなのかもしれない。

 私はしばらく考えた後、部屋に戻って再びネットスケープのメーラーを立ち上げた。そして、彼女のメールをもう一度読んだ後、返信ボタンをクリックした。カチリという、乾いた音が部屋に響いた。

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