第九十五回 幻想の鎧


「――これは駄目だね」

 表情を変えることなくそう言い切ったAさんを見て、私は少しの間、呼吸が出来なくなってしまった。唾を飲み込むことも出来ず、言葉を発することも出来ず、ただただ、Aさんの顔だけを見ていた。
 これは駄目、という言葉はとてつもなく重かった。「ここを直せば」とか「基本的に悪くないけど」「もう少し手を入れれば」という、原稿の価値を少しでも認めるような言葉は一切入っていない。原稿の、まさにすべてが“駄目”ということなのだ。
 ボツという結果は、今風に言うなら「想定の範囲内」であった。もしそうなってもおかしくないし、覚悟はしておこうと思っていた。しかし、心のどこかに(プロットは認められているわけだし、原稿の前半部分もOKが出ている。時間だって半年も費やした。それで全部ボツということはいくらなんでもないだろう)という余裕があった。
 でも、だからと言って不満を感じるということはなかった。はっきり言えば、一秒ごとに(やっぱりな……)という気持ちの方が大きくなっていた。原稿を書いている途中に何度も感じた違和感。自分自身が物語に入っていけない、気持ちを入れられない。推敲のため、自分で読んだときに感じた、作品全体に漂うノリの悪さ。どこをどう修正すればよくなるのか、それすら判断できず、悪い部分があると知りながら提出した原稿である。編集者が見て、ボツという判断を下すのは当然のことなのだ。

 ――僕も、この小説には何か足りない所があると思っていました。でも、それがなんなのかわからないんです。教えて下さい、この小説の問題点はどこなんですか?

 そう聞こうと乾いた唇を開きかけたが、心の中で首を振ってやめた。自分のちっぽけなプライドを守るためというのは自覚していた。もし、この疑問を口にしたら、金田一以降に築き上げた誇りが一気に崩壊するだろう。
 Aさんは、そんな私の気持ちを察してくれたのかもしれない。原稿をめくりながら、ゆっくりと口を開いた。
「まず、前にも言ったけど、話のテンポが悪い。もたもたしているんだよ。スピード感がない。この先はどうなんだろう、と興味を惹かれた所から話が展開しない。ずっと同じ場面が続いている。そして……」
 Aさんが親指でもう一枚、A4用紙をめくった。
「ヒロインに魅力がない。具体的に言うと、嫌な子過ぎるんだ。大人びていて、同級生や大人に対して反感を抱くというのはいい。でも、そのまま、話が終わってしまう。子供の部分が出てこないんだ。かわいげがないんだよ。たとえばだよ工藤君、君がこの話に出てくる少年の一人だとしよう。君はこのヒロインを好きになれるかい? 別に付き合うとかそんなことじゃない。人間的に彼女のことを好きになれるかな?」
 私は言葉に詰まり、Aさんはそのことを予期していたかのように話を続ける。
「読んでくれる人に好かれるキャラクターを作る、これはものすごく大事なことだよ。読者に媚びろと言ってるんじゃない。君にとっても、読者にとっても魅力的なキャラクターを作るんだ。まして彼女はヒロインなんだからさ、これじゃ駄目だ」
 そう言って、Aさんは首を横に振った。
「そしてもう一つ」
 Aさんの太い指が原稿のある一点を指した。
「この小説には致命的な欠点があるね」
 どきりとした。
 私がわからなかった、この小説のノリの悪さの理由。きっと、Aさんにはわかっているのだ。
 ゆっくりと顔を上げたAさんに対し、私は覗き込むようにしてAさんの手元にある原稿を見た。付箋がいくつか貼りつけられている。どこの部分なのか、私は近視なのでよくわからない。
「致命的な欠点……ですか」
「うん」
 Aさんは小さく頷き、上目遣いで続けた。
「この小説はミステリだよね」
「はい」
「だから、怖かったり、恐ろしかったりという場面が出てくる。当然、登場人物がなにかしら反応するわけだけど、君は、すべての場面において、なんの工夫もせずに気持ちを口に出させてしまっている」
「……あ」
「たとえばだ、血で書かれた脅迫文を見る。登場人物が『きゃあ、怖い』と言う。これじゃ駄目なんだよ。いいかい、小説っていうのはさ、読者の想像力を刺激して、読者に感じてもらうことが大切なんだ。登場人物が『怖い』って言ったから、この場面は怖い場面なんだろう、そんな小説はない。読者と駆け引きをしながら君が盛り上げるんだ。怖い場面なら、怖いと説明しちゃ駄目なんだ。怖いとか、悲しいとか思わせたいとき、そういった感情をそのまま書けばいいんだったら僕だって小説家になれるよ。だけど、違うよね。そうだろう、工藤君」
 私は、Aさんの熱を帯びた口調にただひたすら圧倒されていた。相づちを打つことさえ出来ない。
「僕は、いろんな人に声を掛けている。君だけじゃない。いろんな職業の人に児童小説を書いてみないかと誘っているんだ。もちろん、『この人だったらやれる』と見込んだ人にね。『こんなプロットはどうですか?』とか、そういった連絡がよく来るよ。みんな一生懸命だ。小説家というものに憧れている人はたくさんいる。そして、これからデビューするという卵たちもね。だから、君にはもっともっと勉強してほしい。たくさんの本を読む。人間を観察する。原稿に、僕が気づいた点、おかしいと思う点、もちろん、いいと思う点も書き込んでおいた。家に帰ってよく読んでみて下さい」
 Aさんはそう言い終えると、おもむろに立ち上がり、原稿を右手で持って差し出した。慌てて立ち上がり、両手で受け取る。
「それじゃ、僕はこれから予定があるから」
 そう言って軽く手を挙げ、自分のトレーだけを持ってカウンターに戻すと、ゆっくりとした足取りで去っていった。
「……」
 私は頭を下げた後、しばらくその場から動けず、渡された原稿を持ってAさんがエレベーターに乗って見えなくなってからも黙って突っ立っていた。「ハードカバーの本を書かせて賞を取らせたい」。原稿を依頼されたとき、Aさんの口から出たそんな言葉は完全に吹き飛んでいた。

 降格だ――。

 そう思った。近々デビュー予定の小説家見習いから、デビューしたいと思っている小説家志望のひとりへ。

 私は自分の人生を変えることが出来なかった。

 講談社を後にして、有楽町線、山手線と乗り継いで、新宿へ辿り着いた私はなぜかその足を歌舞伎町に向けた。別に気分を変えるために大人の店で遊んでいこうというわけではなく、人がたくさんいる街をひたすら歩きたかったのだ。
 まだ明るいので、けばけばしいネオンは目立たない。学生風のカップルが腕を組みながら歩き、女子高生が二人、ゲームセンターのクレーンゲームの前でなにやら盛り上がっている。
(半年がパーか……)
 不意にそんな言葉が出てきた。
 半年間、ただひたすら、キーボードを叩いて小説を書いた。精神的に書きたくない時もあったし、体調が悪い時もあった。でも、自分の栄光につながると信じ、そして収入にもつながると信じて、ひたすら自分を追い込んで書き進めていった。でも今日、書き上げた小説はボツになった。一時金、見舞い金、基本給。そんなものは支給されない。ボツ作品は実績にもならない。半年間掛けて、なにも生み出さないものを作った、という事実だけが残った。
 歩いている途中、お腹が鳴った。実は、Aさんにお昼をご馳走してもらうつもりで来たので昼食を取っていなかった。
「……」
 いい年をして涙がこみ上げてきた。悔しいのではない。自分が情けないのだ。

 小説家を志望して10年、二十歳を過ぎると同年代の作家が現れるようになった。純文学で賞を取ったりすると、新聞やテレビなどで話題になる。畑違いとは言え、やはり、嫉妬心のようなものを感じた。
 親や友人が若い作家のことを話題にする。私は言った。

「本気を出せば、俺でも(賞を)狙える」

 若い作家が場を与えられ、テレビや演劇など違うジャンルで活躍し、友達がそのことを話題にするとこう言った。

「同じ場を与えられれば、俺だってやれる」

 本気を出せば。同じ場を与えられれば。全部仮定の話であり、じゃあなぜ本気を出さないのか、同じ場を与えられる努力をしないのかと問われたら、屁理屈で返すしかなかっただろう。
 だが、私はそうやって仮定の話を積み重ねて自分の心を守しかなかった。本気を出せばいつでも賞が取れるし、場を与えられれば活躍できる力がある。小説家になるという、人生を賭けたチキンレースにおいてブレーキを踏まずに走るためには、自分を信じ切るための鎧を用意するしかなかった。
 なにもかも仮想で出来た鎧。幻想の鎧と言ってもいいだろう。月日が経つにつれ、誰にも傷つけられないその鎧はどんどん強固なものへとなっていった。結果、自分はまだ何者でもないのに、特別な存在になったような気がした。

 そして、たまたま私にチャンスが訪れた。
「場を与えるから、本気を出してくれ」
 十数年言い続けてきた条件が現実となった。当然、鎧は脱がなくてはならない。生身の状態で自分の力をぶつけた。結果、まったく駄目だった。
 Aさんから見せられた鏡に映っていたのは、鎧を身に纏っている間、なんの努力も訓練もしてこなかった、貧相な体の自分だった。

 声高に、仮定の条件下で発揮される予定の、自分の力を誇示していた鎧姿の自分。他人から見たら、さぞかし滑稽だったろう。幻想の鎧が誰にも傷つけられなかったのは、鎧が強固だったからではない。実際には存在しないものだったからだ。
 その、“ある意味最強の鎧”を脱いでしまい、もう身に纏うことは出来なくなった今、私には将来の展望などまったく見えなかった。
 これからどうすればいいんだろう。なにをして食べていけばいいんだろう。

 ふと目をやったショーウインドウに映っていた自分は、不安げな眼差しをしていた。
 裸で家から放り出された子供のように。

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