第百一回 魔法の謎解き


「ああっ……っとととと」
 レンタル開始になったばかりのCDアルバムが流れているレンタルビデオ店内。平日の昼間なので客はまばらだったが、手をつないだ学生風のカップルや、学校が早く終わったのか紺色のブレザーを着た黒髪の女子高生数人が思い思いにそのCDを手に取り、なにやら話している。
 小脇に抱えていた数本のビデオテープをぼたぼたと落下させ、一瞬、視線を集めた私は、彼らに謝るように頭を下げて拾い上げた。そして、今度は左手の平に横にしたビデオテープを5、6本重ねて置く。私は手が大きいほうなので、それぐらいだったら余裕である。再び落とさないようにバランスを保ちながら、テープを落とす前に視線の先にあったビデオパッケージの上部を右手の中指で引っ掛けた。
(これ、面白いって聞いたことあるんだよなぁ)

 この日、私は遅い朝食を食べた後、自転車で近くのレンタルビデオ店へ向かい、一般ビデオを物色していた。
 カーテンの向こう側にある秋菜里子の新作は本番なのかということも気になる。いや、デビュー作から考えると本番に移行するとは到底考えられないが、最初は擬似だったのに『女尻』で突然本番を始めた鈴木麻奈美の例もある。今日借りるか。借りないとわからない。逆に借りれば俺にはわかる――。
 頭のどこかではそんな葛藤もあったが、今大事なのは、秋菜里子が新作で本番をやっているか否かではない。
「スクリーム……か」
 手にしたパッケージをくるりとひっくり返して裏を見た。ビデオパッケージはどんなジャンルでも裏側が一番大事だ。ムンクの叫びみたいなお面をかぶった殺人鬼が出てくるホラー映画というのは知っていたが、パッケージの紹介文もだいたいそんな感じである。ホラーはあまり好きではない――映画館では怖いのに、家で見ると笑ってしまう――が、雑誌に面白いと書いてあったような覚えがあったし、食わず嫌いもよくないので左手の山に追加した。一瞬よろっとしたが、左腕をぐいっと伸ばしてバランスを取った。

 ――伝えたいことを登場人物に語らせずに読者に伝える。

 Aさんが、今の私にはまったくないと言った技術。
 それが目に見えるものならすぐにでも取得できるのかもしれないが、なんの取っかかりもない今、私にとってその技術は特殊な人間にしか使うことができない魔法のように思えた。
 だが、次になにを書くにしろ、この魔法の謎を解かない限り、私は登場人物の口ですべてを語ってしまい、同じように壁に跳ね返されることになるだろう。

 ある新人賞に応募して落選した作品を、書き直すことなく別の新人賞に出す人がいるという。審査で原稿を読む人は限られている、たまたまその人のセンスに合わなかった、あるいはその人が理解できなかっただけ、別の人なら認めてくれる、そんな風に考えるようだ。
 他人事のように書いたか、私にもその気持ちはよくわかる。いや、物を書く人間ならば、自分の作品をある特定の人に否定されたら誰だってそう思うのではないだろうか。
 正直言って、ここの判断は難しい。実際に、別の人からは高い評価が下される――そしてその評価は世間の評価と一緒である――可能性もあるだけに、下手に手を入れて全体がおかしくなってしまうのは避けたい。しかし、今回、自分が書き上げた小説を読んでAさんが私に足りないと言ってきたことは、他の人間も絶対に指摘してくるという確信があった。
 どうすれば謎を解くことができるのか。その手がかりを私は映画に求めることにした。長年の“作家志望”コンプレックスとでも言うのか、もともと持っている器のせいなのか、売れている本や話題の本を読むと、どうしても自分にとっての粗を見つけようとしてしまう。
 今ならば揚げ足取りを考えずに本を読めるかもしれないとも思ったが、よりフラットな心で向き合える映画のほうがいいと考えた。

 家に帰り、冷蔵庫に入っていたサントリーのウーロン茶をラッパ飲みした後、部屋に行って早速ビデオを挿入した。ビデオ製作会社の新作CMが映し出されたので、リモコンを使って早送りをする。
 映画を見て内容を分析するというのは結構疲れることで、いきなり何本も見るのではなく、一日一本ずつみることに決めた。

 借りたビデオはどれもこれも楽しめた。今までの自分なら絶対に手に取っていないであろうものを手広く借りたが、はずれがない。話題になるような映画ってやっぱり面白いんだなあと感心してしまった。でも、「なぜ自分にとって面白いのか」が出てこない。ただ単に「面白かった」で終わってしまうのだ。
 テンポがよかった。キャラクターが魅力的だった。そんな感想は出てくる。しかし、それだけではないなにかがあるはずなのに、それがまったくわからない。
 なんの前進もないまま、借りてきた最後の一本をプラスティックのケースから取り出した。
「スクリーム……か」
 レンタルビデオ店で手にしたときとまったく同じ言葉を口にする。最後に見る一本が最後に手に取った一本。はっきり言って期待度も一番下だ。これまで見てきた大作映画と比べると、格落ちの感は否めない。ホラー映画を馬鹿にしているわけではないか、お金だってそんなにかかっていないだろうし、出てくる俳優はドリュー・バリモア以外、知らない人ばかりだ。
 冷蔵庫から取ってきたボトル缶のコーラの蓋を開け、一口飲んだ後、デッキにテープを滑り込ませ、立てた枕に左肘を乗せて、テレビ画面を見た。

『スクリーム』の冒頭は、一人で家にいたドリュー・バリモアが殺害されるシーンから始まる。夜、自宅のコードレス電話に知らない男から電話がかかってくる。「間違い電話だった。せっかくだからボクと話そうよ」という男と初めは愉快に会話するものの、男は突然「実は今、君を見ている」と異常者の本性を剥き出しにし、ドリュー・バリモアはパニック状態に陥る。
 殺人鬼がドリュー・バリモアの彼氏を椅子にくくりつけ、彼の命を救いたいならクイズに答えろと言って、あるホラー映画に関するクイズを出すシーンはこの映画で一番有名な部分だろう。
 殺人鬼がホラーにありがちな不死身人間ではなく、殴れば普通に倒れるせいか、これはもしかしてミステリなんじゃないかと思いつつも話は進んでいき、寝転がって見ていた私はいつの間にかあぐらを掻いて画面を凝視していた。妙に引き寄せられるのだ。ミステリ仕立てのホラー、そこにあるある系の笑いが加わるという「ドタバタミステリホラーコメディストーリー」が私にとってツボだったということもあるだろう。だがストーリー以外の部分でなにかを見せられ、ぐいぐい引っ張られるような感じがして仕方がなかった。
 思えば、冒頭のシーンからずっと感じていたことだ。
 右手の指先を唇にあて、画面を見ながら考えた。ホラー映画というのは“恐怖感”と“不安感”を登場人物と観客で共有しようとしている。この映画もそうで、その狙いは少なくとも私に対しては当たっている。犯人は誰だろうという謎解きにも惹かれるが、ヒロインのシドニー(ネーヴ・キャンベル)は生き残ってくれるんだろうかという不安も感じている。
 なにかが弾けそうなのに、なかなか破れない。
 私のもどかしい思いなど映画は無視して、ストーリーは進んでいく。
 シドニーが、学校のトイレで殺人鬼に襲われるもののなんとか逃げ出してしばらくたってのシーン。
 学校の生徒が悪戯に使った“ムンクの叫び”の仮面を顔につけて、鏡に向かっておどける校長先生。ドアがノックされて扉を開けるが誰もいない。いったん、ドアを閉めるがまたドアがノックされる。生徒の悪戯かと部屋を出て、あちこちの扉を開けるが誰もいない。まあいいやとばかりに校長室に戻って扉を閉めると、扉の裏に隠れていた殺人鬼が襲いかかってきて彼は無惨に殺される。
(……)
 いきなり鼻の頭辺りから誰かの手が飛び出してきて、額を思いっきりこづかれたようなショックを感じた。画面に視線を向けてはいたが、役者の演技はもうまったく見えていない。あぐらを掻き、手を膝に乗せ、唇を閉じて考える。
 今、校長と一緒に俺も不安になっていた。なぜだろう。音楽のせいか。それとも扉からなにかが出てくるのを怖がっていたのか。いや、違う。多分、音を消していても不安に思ったし、どこからか出てくるのは想定済みだった。じゃあ校長に感情移入していたからか。いや、そんなにキャラの立っている人じゃないだろう。
 次の瞬間、ドリュー・バリモアがパニックを起こしていた冒頭のシーンがここで出てきた。まるで、誰かが私に謎かけをしているようだ。
 あの時、私は正直言って結構怖かった。真っ暗で隣の人間がどこの誰なのかわからない映画館ではなく、自分しかいない安全な部屋でチーズビットを食べながら見ていたのにもかかわらずだ。ドリュー・バリモアはシドニーと違って激しく泣き叫んでいたし、パニックも起こしてはいたが、怖いとは一言も口に出していなかった。
(言葉じゃない。音楽でもない。殺戮シーンの想像でもない。じゃあ、なにが俺を怖くさせていたんだ)
 私の頭の中で並列して揺れ動いていた先ほどの校舎でのシーンと冒頭のシーンが重なった。
 思わず口を開け、視線を宙に向けて、そして再び画面を見直す。
 ドリュー・バリモアの怯えた目、シドニーの不安そうな目、校長の怪訝そうな目、この映画に出てきた様々な目がぐるぐると回り、そして交錯して弾け飛んだ。
 乾いた唇がゆっくりと閉じ、その唇にあてていた右手が足の裏に落ちた。

「――――視線か」

 私は傍らに転がっていたリモコンを手にして、巻き戻しボタンを親指で押し、もう一度校長先生が襲われる場面を見た。

1.まず、ムンクの叫びマスクをかぶって鏡に向かっておどけている校長の後方のドアが激しくノックされる

2.ドアを開けた校長が廊下の左右を見る

3.誰もいないのを確認した校長が部屋に背を向けたままドアを閉める(カメラはそれを後ろから捉える)

4.資料室のような所を探した後、校長室に戻り、クローゼットを開ける

5.クローゼットに取りつけられた鏡を見て少し驚く

6.部屋の扉を閉めると、その裏に隠れていた殺人鬼が飛び出してくる

 校長先生は左右、あるいは後ろといった“前方を見ている限り視界に入ってこない場所”を執拗に気にする。同時に、画面は校長先生に合わせて、あるいは観客が思い描いている殺人鬼の場所に合わせて何度も何度も観客の視点を振る。当然、観客はスクリーンの上下左右奥手前を強烈に意識させられる。
 自宅に不審者の影があったら皆さんはどうするだろうか。たとえば鍵を開けたら玄関にまったく見知らぬ靴が置いてあったという場合などだ。「誰かいるの……?」などと声を出しながら、あるいは無言で頻繁に左右を見るだろう。そして、普段はまったく気にならない物音がしただけですごい勢いで振り返るのではないだろうか。それはなぜかというと不安だからだ。自分の身を守るために、確認できない場所を作りたくないからだ。
 人が襲われるシーンの前、ホラー映画はわかりやすいぐらいに視点を振ってくる。それは襲われる人間の視点(視線)であり、彼(彼女)の心理状態であり、観客はそこに乗っかって不安を共有する。

 視線(視点)が活きてくるのは不安感や恐怖感を表す場合だけではない。片思いをしている女性が目の前に来たら、まずどこを見るか。嬉しかったらどこに目をやるのか。人に裏切られたときはどうするのか。そういった視線に読者は共感するのだ。
 簡単な例文で恐縮だが、

「嬉しい」
 ○○はそう言った。

 この会話文において、登場人物は口では嬉しいと言っているが、読者はその視線を感じることができない。だから、どれぐらい嬉しいのか、本当に嬉しいのか伝わってこない。

 ○○は白い歯をこぼし、そのまま大きく息を吸い込むようにして空を見上げた。

 この文章には会話がない。しかし、単純に「嬉しい」と口に出させるよりも、登場人物の気持ちが伝わるのではないだろうか。もし確かに伝わってきたというならば、それは登場人物の視線を感じ、彼(彼女)と同じ景色を想像でも見て、自分の経験と重ね合わせることができるからだ。

 私の小説に出てきた登場人物の視線は、皆、話の先々を知っている“作者である私の視線”とまったく一緒だった。誰が話すか知っているようにそちらを見ている。これからなにが起きるか知っているようにそちらを見ている。怖い怖いと口にしたところで、彼らは前しか見ていない。まるで、自分の後ろでハプニングが起きないことを知っているかのように。つまり、読者は先のことをまるで知らないはずの登場人物の視線ではなく、私の安定した視線で物語を見てしまうわけで、いくら煽ったところで不安や恐怖は減退してしまう。

 私はビデオをそのままにして、膝に手をついて立ち上がり、居間にある本棚からむしり取るようにして本を手にし、その場で立ったまま読んだ。
 ミステリ、SF、歴史物、そして私が心のどこかで揶揄していた一連の少女小説もあった。ページを次々とめくり、目に入った箇所を頭の中で読み上げる。
(……)
 もうなにも言えなかった。手にしたすべての小説に、当然の如く、“登場人物なりの視線”が存在していた。ほんの数ページ、数十ページの間でも、その視線を追って、一喜一憂している自分に気がついた。
 途端に猛烈に恥ずかしくなった。

 たとえば――カレーを食べてうまいのまずいのというのは、カレーを作ったことのない人でも言える。
 私も、ろくに作ったことがないのに、うまいのまずいの言っていた一人だ。「妙に甘い」「コクがない」。食べればそれらの欠点はわかる。そして、食べているうちに「辛さをちょうどよくすればいい」「コクを出せばいい」と、もっと上質のカレーを作れると思い込んだ。
 じゃあ作ってみてと言われて、ある程度の材料を渡された。ところが、私は一からちゃんと作るのが初めてだったので、カレーのコクがどこからきているのかよくわからなかった。ましてや、みじん切りのタマネギが溶け込んでいるなんてまったく気がつかなかった。
 だから、ルー、人参、じゃがいも、肉、それらの“目にできるものだけ”をカレーだと思った。そして、それらの組み合わせでなぜうまい食べ物ができるのかなんて考えたことがなかった。適当に鍋に入れて煮込んでみたものの、当然のように、出来上がったものはただ水っぽいだけのカレーだった――。

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