第百二回 未来の選択


“登場人物に自分の気持ちを安易に喋らせない。視線でタメを作り行動で感情を示すようにすることで読者の期待感を維持する”

 私がプロとして初めて得た創作の武器はこんな要旨になるだろうか。
 正直、小説に限らず、映画でもなんでも創作のコツのイロハの「イ」ぐらいにあたる基本的なことだと思う。家と出版社を何度も往復し、実際に数百枚の小説を書いてボツにされてそれでようやく気づくようなことことか笑われてもいいぐらいの初歩的なことだ。
 しかし、人にいわれたからそういうもんなんだろうなと理解した気になったというわけではなく、実際に適用されている創作物を通して気づいたというのは今でも忘れられない自分にとってのターニングポイントだった。

 私はずっと小説家になりたい人だけが巣くう森にいた。
 入り口へ戻る道だけはたくさんの人によってかたく踏みつけられ、決して迷うことはない、しかし、出口への道は存在しない森。仲間を見つけたとしても一緒に進んでいけるのは途中まで。ある所からは一人で進んでいくしかない。
 孤独に耐えられなくなり声を上げる人もいる。不安をかき消すために自分が進んでいる道こそ正しいとアピールする人、自分に返ってくることを期待して同じく森の中にいる誰かに向けて叱咤激励をする人、同情を集めるために嗚咽混じりの愚痴を漏らす人、自身のプライドを保つために森を抜けた人に対して僻む人。
 私は全部やった。
 でもそうやって深い森から抜けようと歩き、ある日、「出口で待ってるから」と声を掛けられたはいいが、その後も抜けられず、疲れて、疲れ切って俯いてしゃがみ込んだ。
 森を抜けることは決して義務ではない。このまましゃがんだままでも誰かに叱られるわけではない。ただ忘れられるだけ。忘れられるのは時にこの上なく楽だ。ずっと森の中にいて、作家になることを諦めた今後の人生という現実と向き合うことなく、時が止まった森の中で朽ち果てる。それでいいと思えたときもあった。

 だが私は立ち上がり、ついに森を抜けた。
 出口へ続く道を見つけることができたのはなぜなのか。直接的には“ひらめいたから”ということになるだろうが、ひらめいた理由は正直、今でもよくわからない。ただいえるのは、高校を出てアルバイトをしていたときは勿論、ライターとしてデビューした後も少しでも自分を大きく見せようと親や友人、彼女に対して自分は小説家になるとうるさいほどアピールしていたのに最後は無言だったということだけだ。無精髭をみっともなく伸ばし、この年齢でなにもない人になってしまうことを恐れていつまでも捨てられない“夢”を入れたリュックを背負いながら、道とはいえないような細い道をただ一人で黙って歩いた。歩き続けた。口を開く余裕はまったくなかった。抜けるには口より足を動かすしかなかった。

 ――スクリーム鑑賞から二日経ったお昼時。
 右手の中指で下唇を何度か弾いたあと、頬を膨らませて口をすぼめて溜め込んでいた空気を勢いよく吐き出した。
 目の前を覆っていたもやはすっかり晴れて先が見通せるようになった。心に光が射し込むというのはこんな心境をいうのだろう。ところが、そうなったそうなったで今度は心の空に雨雲がかかってきたような気がしてきた。
 今日は編集プロダクションで打ち合わせがある。雑誌の無署名コラムを書く件だ。ついさっき食べた朝食はかたくなりかけの昨日炊いたご飯と、スーパー閉店前に購入した半額のカレーコロッケ。私は牛肉コロッケが好きなのに閉店前に決まって残っているのは野菜かカレーなのが残念だ。
 いつものように居間の床ではなくテーブルに腰掛け、自宅でバス待ちをしていた。天気は雨の心配はなさそうな曇り。
 近頃お気に入りのM&M'Sのチョコレートを口の中に次々と放り込み、血糖値を上げながらふと思う。
(あれはなあ……)
 そうだ。『スクリーム』を返却した日、清々しい気分で入れ替わりに借りた川島和津実と澤宮英梨子のAVが予想通り疑似本番だったのは残念だった。まあこの間借りた奈々見沙織よりはいいかもしれない。彼女はキスすらNGだ。三人とも木原愛美を見習えと。彼女はいつも全力投球だ。いや、そうじゃない。それはいいんだ。それはとりあえずいいんだよ。現時点での最大の問題は、

「Aさんが僕にいっていたことがやっとわかったような気がします」

と、再度青い鳥文庫の原稿に取り組むか、

「残念な結果となりましたが他社でいい経験を積むことができました。心機一転、御社の作品を書かせていただきたいと思います」

と、角川書店の原稿に取り組むかということだ。
 社会的な道徳観というか常識的にいけば、Aさんからもらったアドバイスで成長できたわけだから、もう一度頭を下げてお世話になるのが当然だろう。しかしプロットの段階から始める必要がある青い鳥文庫と比べ、角川書店の方には土台としてあの『あたしの彼はハムスター』がある。タイムリミット型サスペンスなので、小中学生向けのミステリを前提にした青い鳥文庫よりも武器を活かせそうな気がするし、なにより会得した武器をすぐ使いたいというのが正直な気持ちだった。
 バスの時間が近づいてきて私は家を出た。バス停までの道のり、両手の指を伸ばし、髪の毛を空に向かって突き立てるようにさすった。講談社か角川書店か。森を出られたはいいが、自分はこれからどちらに向かえばいいのだろう――。

「で、どう? 青い鳥文庫の方は?」
 小田急とJRを乗り継いで、毎度のごとく、ようやく辿り着いたといいたくなる場所の編集プロダクションのオフィスで、出してもらったコーヒーを頭を下げながら飲み始めた私を見てKさんがにやにやと笑いながらいった。
 小さいな空気清浄機の働きを一切無視するように、相変わらず煙草の匂いが充満している。
 Kさんはもともとライターだ。経験の浅い私が四苦八苦しているのがよくわかるのだろう。
「状況変わらずですね」
 ズルルと音を立ててコーヒーをすすった後の私の一言にKさんの細い眼が一段と細くなる。
「あれからAさんからはなにもいってこないの?」
「全然連絡ないですね」
 Aさんに原稿をボツにされたときの予感通り、私はAさんの頭の中にある出版予定候補者名簿から消えたようだった。今までは青い鳥文庫から新刊が出るたびにそれが送られてきて、月に二回はプロットや原稿の進行具合を聞いてくる電話がかかってきて、月に一回は食事に誘われていたのだがそういったコンタクトがまったくなくなってしまった。
「そうか。角川の方は?」
「どっちかというと、都合のいいときにこっちから連絡しろって感じですね。青い鳥文庫を書いてからという話だったので」
「なるほどねー」
 Aさんは煙草を口にくわえ、一度ライターを手に持った後、そのライターをテーブルに置いて煙草を口から離して続けた。
「でも青い鳥文庫の方はボツだったわけだもんなあ」
「そこが問題なんですよね」
 私はコーヒーカップの中央にマドラーを突っ込み、上下に何度も上下させて切るようにコーヒーをかき混ぜた。
「それで考えたんですけど、ボツにされたときにAさんがいっていたアドバイスを自分なりに解釈して取り込めたような気がするんですよね。で、そのアドバイスを元にとりあえず角川書店の原稿に取り組んでみるのはどうかなあと。また青い鳥文庫ということになるといつまで経っても角川の原稿書けないし……」
 もしかしたら、それは仁義から外れているというようなことをいわれるのではないかと思ったが、Kさんは私の言葉を聞いて軽く頷き、再び煙草を口にして今度はライターで火を点け、ゆっくりと煙を吐き出していった。
「それでもいいんじゃないかな。工藤君の話からしてAさんもそんなに急いでいるというわけじゃないだろうし、角川書店の方は賞を取った作品、えーとなんだっけ」
「『あたしの彼はハムスター』です」
「ああ、それそれ。まあそのタイトルは俺的には謎なんだけど、それがあるわけだから。青い鳥文庫で行き詰まっていると感じているのであれば、角川でやってみたら」
「そういう、こっちで駄目だったから今度はあっちみたいな行動は出版業界的にはどうですか」
 私の真剣な問いかけにKさんは声を上げて笑った。
「いや、正直俺もよくわかんないけど、別に大丈夫だと思うよ。漫画とかだったら専属みたいな考え方があるんだろうけどねえ。……あ、ちょっとちよっと」
 私たちのいるそばをなにげなく通り抜けようとしていたTさんにKさんが声を掛けて手招きをする。さっか道の読者、誰もが忘れていると思うが、Tさんは編集プロダクションの代表である(初登場は第十回 プロへの第一歩を踏んだ日)。白い物が混じった髭をたくわえて、ひょうひょうと、それでいながら威厳を感じさせる不思議な雰囲気でオフィスを取り仕切っている。
「工藤君がさ、Aさんに青い鳥文庫の作品ボツにされたから角川で書きたいっていうんだけど、別に平気だよねえ、それ」
「いや、そんな偉そうな感じじゃなくて、あの」
 端折りすぎて、Aさん対応に不満なので角川で書くみたいな話になっているので私は政治評論家の森田実さながらに右手を手刀のようにしてKさんに向けた。二人のやりとりを見てTさんが笑いながらいう。
「平気だと思うよ。まあ俺だってそんなに詳しいわけじゃないけどね、金田一の場合はまず出版ありき、絶対に本が出ることが決まっていて話を進めたじゃない。そうなると、工藤さんがそれを投げ出して他の所でなにかを書くっていうのはまずいよね。だけど、青い鳥文庫と角川の場合は今の段階では本を出すかどうかはわかりませんってことでしょ。その段階でAさんが細かいことをいうとは思えないなあ」
「……だってさ」
 Tさんの言葉を受けてKさんが悪戯っぽく笑った。
「だから、工藤さんが角川の方がやりやすいと思うなら、そっちを進めた方がいいかもね」

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