第百三回 ハムスター再読


 片瀬江ノ島、箱根湯本と新宿を結ぶ小田急線にはロマンスカーという特急が走っている。今はずんぐりしていて青いタイプなどもあるが、昔は先がちょっとだけ尖っているように見える形と赤いラインが印象的な列車で、絵本でしか見たことがない新幹線みたいだと子供たちには憧れの的だった。

小田急ロマンスカー7000形

ファイル:ODAKYU-ROMANCECAR-LSE-7000.jpg - Wikipedia

 私は子供時代も大人になった今もこの電車が好きだ。全席指定で必ず座れるし、トイレもあるし、一般的な小田急の車両とは作りが違うのかほとんど揺れることがなく乗っていてすこぶる快適なのもいい。
 とはいえ、急行と比べて驚くほど速いというわけではなく、駅へ行ったら必ずいるという電車でもないので乗ることの方が少ない。でも、新宿から帰るとき、夜遅くてへとへとに疲れていればちょっと待ってもロマンスカーに乗ると決めている。この辺の時刻に走る新宿始発のロマンスカーには帰宅専用という意味なのか『ホームウェイ』という愛称がついているが、口に出してそういっている人をあまり見たことがない。ロマンスカーはやっぱりロマンスカーだ。

 編集プロダクションからの帰り、買い物のために久しぶりに秋葉原に寄り、新宿の紀伊國屋にも寄ったのでだいぶ遅くなり、新宿駅西口の吉野家で牛丼をかき込んでいた頃には急行で帰るという選択肢は完全になくなっていた。
 夜のロマンスカーは江ノ島方面へは行かずに小田原の方へだけ行ってしまうので、新宿駅にある専用の自動販売機で町田駅までの特急券を買い、ホームへ入ってから駅の売店で東京スポーツと柿ピーナツと午後の紅茶ストレートティーのペットボトルを仕入れ、車内清掃を終えたロマンスカーに乗り込んだ。
 特急券に書かれた番号を見ながら通路側に腰掛け、ペットボトルを座席と背中に挟むように横に置き、新聞を脇に挟んだまま柿ピーナツの袋を空けて柿とピーナツを一つずつ取り出して口の中に放り込む。
 青い鳥文庫の方は一旦置いて、ハムスターの方をやるというのは実は行きの電車の中でだいたい決めていたことだ。あとはその行為が著しく仁義に反するわけではないという保証を信頼している人にもらえれば決定だった。
 東スポを脇から抜いて目の前で一面を広げた。
(明日、角川書店のOさんにメールしよう)
 このときの一面がプロレスの話題だったか『カッパの足跡発見』だったか『アメリカ大統領と宇宙人が会談』だったか覚えていないが、見出しが目に入る前に頭の中でそう呟いた。

 翌日。朝起きて台所へ行き、昨日の帰り道、コンビニで買っておいたあんぱんを手にして部屋に戻り、中央であぐらをかきながら富士通FMV-DESKPOWERの電源スイッチを押し込んだ。同時にハードディスクがカリカリと動き始め、Windowsが起動した。
 左手でマウスを持ち、いつものようにデスクトップにあるネットスケープのアイコンをダブルクリックし、右手の先、薬指、中指、人差し指の三本を額に当てたあと何度か左右に動かして画面の様子を見る。
 いつか書いたような気がするのだが、ネットスケープというブラウザにはメーラーが取り込まれており、右下にあるメールのアイコンの横に「!」マークがあればメールが届いている、なければメールはないと簡単にメールチェックができるようになっていた。
「……ない」
 いい加減しつこいのはわかっている。というか、なにもかも全部わかっている。だがネットスケープを起動するたびにちょっとした胸の高鳴りを感じてしまう。
 ごめんなさいと書かれたメールを受け取ってからもう何日経っているだろう。さようならと書かれた手紙を受け取ってからは何日経っているだろう。それでもなお、朝のメールチェックでチェック中を表す「?」マークが「!」に変わる日を待っている自分がいる。彩実ちゃんからのメールはもう永遠に届かないのだろうか。
 額にやっていた手を下げて両目を覆い、鼻でため息をつくと、仮面を取るように手を下ろし、メールのアイコンをクリックしてメーラーを立ち上げて以前受け取ったメールの返信という形でOさんに、

 本の原稿の内容についてですが、新しい作品ではなく、ハムスターに加筆する形のものでお願いしたいと思います。

 という内容のメールを送った。

 Aさんへの連絡手段は「電話する」の一つしかなかったのに対し、Oさんへはメールも可なので気持ち的に楽だ。また返事もメールであればネットに接続していたので電話が通じないという事態も避けられる。
 送信ボタンを押したあと、テキスト王に設置してあるレンタルBBSの書き込みなどをチェックして、一旦パソコンの電源を落とし、夕方再度インターネットに接続すると返事が届いていた。

 わかりました。それではハムスターでいきましょう! メールで構いませんので、ある程度書けた段階で一度原稿を送って下さい。

 講談社のこの字も青い鳥文庫のあの字もなかったのはちょっとほっとした。青い鳥文庫はどうなりました? と聞かれると「実はボツになりました」とネガティブな説明をしなくてはいけないし、Oさんも一応、「そうですか。残念でしたね」などと応えなくてはないないだろうし、お互いに気まずいだろう。
 とにかくこのメールのやりとりで次の原稿はハムスターということが完全に決まり、私は気持ちを新たにした。

 とはいっても、じゃあやるかと思ったのは翌日の夜で、それもとりあえず『あたしの彼はハムスター』のテキストファイルを読み直してみるというところから始めた。秀丸でファイルを開き、ホイールが付いていないマウスで縦のスクロールバーをドラッグして読んでいく。
「……」
 自分の中で形作られていた“少女小説”のイメージをこれでもかと意識したテンションの高い文体に甘酸っぱい感情を抱いたのも最初だけ、読み進むに連れてどんどん気が重くなっていった。
 書き上げた作品はいくらよくできたと思っても可能な限り寝かせておけ、というのは文章を書く人ならまず頭に入れておくべき鉄則だと思う。さっか道一回分は400字詰め原稿用紙たかだか10枚ぐらいしかないが、それでも一日は寝かせている。寝かせていた文章を読み直すと、書き上げた直後にはまったく気づかなかった粗がこれでもかと見えてくるからだ。
 ハムスターもそうやって送り出した原稿だったが、金田一、青い鳥文庫の原稿と経験した状態で読み返してみると賞を取った後に再び寝かせたということも相まって、細かいのと大きななものを合わせて相当な数の問題点が目についた。
 ハムスターはもともと400字詰め原稿用紙100枚ほどの小説で、単行本化するには枚数を最低3倍に増やす必要がある。読み返す前には仮にも賞を取った小説だし、書いたのはそんなに昔じゃないし、そのまま使える部分も結構あるんじゃないかという考えを抱いていたのだが、台詞一つレベルならともかく、章単位で使えるなんていう部分はまったくないことがよくわかった。ベースがあるから青い鳥文庫の原稿より全然楽かもなんていう考えは気のせいもいいところであり、最初から最後まで新しい作品として書かないと駄目ということだ。
「……そう来ちゃったかぁ」
 私はマウスから右手を離し、その手で前髪を掴んで何度か引っ張りながら呟いた。問題に直面したとき必ず出てくる口癖だ。
「そう来ちゃうのかぁ……そうだよなあ……そういうことだよなあ……」
 髪の毛が抜けるのをお構いなしに引っ張り続ける。その後、唐突に頭を掻きむしって寝転がった。
 結局、一から書かなければならないというのは青い鳥文庫と変わりないらしい。しかも、出版社の賞を取っているものをベースとすると私とその出版社の編集者であるOさんで決めたわけで、私の独断で「タイトルだけ同じにしてまったく違うストーリーの作品にしました」ということはできないだろうから、一から書きつつ既存の大事なポイントは必ず踏んでいかなければならないということになる。創作というのは俗にいう“キャラが勝手に動く現象”などで思いも寄らぬ方向へ行くことも多々あり、それが作者からするとスリリングで面白かったりすることも多いが、今回の場合、そうなっても必ず進行方向を修正して通るべき場所を必ず通るようにする必要があるわけだ。NASAの太陽系外惑星探査機の制御、あるいはパイロットウイングスでの自機の操作みたいな作業だ。大雑把な自分にはすごく向いていない。想像しただけでストレスが溜まり、髪の毛を抜きたくなってくる。
 だいたい自分の過去の作品を極端に脱線させず3倍のボリュームでリメイクするなんていう作業は初めてで、どうやって進めればいいのかまったくわからない。ベースがあるから青い鳥文庫よりも楽かもしれないなんて思い違いもいいところだった。あっちより難しい仕事になることをようやく理解した。

 とにかく根気よく解決していくしかないな。起き上がってそんなことを思いながらラストまで読んだ後、ふと気になった。
 PageUpキーを右手の中指で連打し、先頭に戻り、再度読み返す。イライラしてきた。さっきはっきりさせた問題点よりももっと大きな嫌なことが作品全体を覆っていることに気がつき始めていた。
「ぱあっと読めるんだよな」
 そう。あまり引っかかるところがなく、最初から最後まで一気に読める。ハムスターだではなく自分が書いた作品すべてがそうだという自負がある。私はこのことを自分の最大の長所だと思っていた。
 だが今感じているのはそんなポジティブな感覚じゃない。ネガティブだ。説明できない嫌な感覚。なんだろう。
 キーから指を離し、二度目のラストシーンを少し上目遣いに見ながら顎に伸びた無精髭をさすった。そしてそのまま天井を見上げた。もやもやとしていた感覚がはっきりと言葉になり、頭の中を埋めていく。
「……わかった」
 そう呟いてから少しして口に出た言葉。それは『あたしの彼はハムスター』という小説が抱えている致命的な問題点を如実に言い表した言葉だった。

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