第百十回 冬の夜空の下で


 雪が降っているわけではないが、しんと静まりかえっている夜更け。エアコンをつけるとのどがやられるので服を何枚も重ね着して、背中を丸めながら、細かく鼻をすすって涙を拭いた。なぜか止まらない。どうにも止まらない。涙をぬぐって放り投げたティッシュの山から再利用できそうなのを掴んで鼻を二度、三度とかみ、声が漏れないようにタオルで顔を覆った。
 飾った言葉を抜きに書くなら、私は今、「自分で書いた女子中高生向けの話、及び登場人物に思いっきり感情移入して感動し、号泣している」のだ。
 私はこれまでプロの作家が自分で自分の話に感動して泣いたという話を聞いたことはない。仮にそういうことがあったとしてもあまり公言されないのは、デビューすらしていないお笑い芸人が、セルフ撮影した自分の芸を見て一人で大爆笑しているような、あるいは新人のアイドルが自分の写真を見ながら「わたしってやっぱりかわいい」とうっとりしているような、はたまた二村ヒトシが撮影しながら[自主規制]しているような、他人から見てドン引き必至のシチュエーションだからだろう。
 これが、話のクライマックスを書いている途中にこれまでの苦労が走馬燈のように蘇り……であれば多少は絵になるかもしれないが、純粋に登場人物二人がかわいそうで泣いているのは自分でもわかっており、それが客観的に見ておかしいので早く泣き止みたかったがいつまで経っても涙を抑えられない。泣くだけではなく、こんなに感情移入したことが初めての経験だった。

 デビューにつながりそうな賞に応募しようと思い、公募雑誌で見つけたのは女子中高生向けの雑誌の賞、じゃあこの賞向けの話を考えよう。成り立ちを考えれば、『わたしの彼はハムスター』という小説はもともと書きたくて書いた話ではない。ゆえに特別に込めた思いやメッセージがあったわけでもない。それが今、ここまで愛おしい存在になっているのはなぜなのだろう。

小説ASUKA新人賞の応募要領

私が応募した回の小説ASUKA新人賞の募集要領。

 初めて小説家になりたいと思った小学校五年生のあの日。
 私はどうして小説家になりたいと思ったのか? 
 そう、自分の書いた話、自分が考えた犯罪トリックをたくさんの人に読んでほしかったからだ。それがいつからか、小説家になりたい、だけになった。いつの間にか伝えたいことがなくなっていた。それは自信を持っていえることが何一つなくなってしまったということだったかもしれない。就職をした友人たちが職場で着実に経験を積み重ね、役職という称号を得る中、作家志望という言葉を口にすることすらできなくなっていく自分。“作家としての実力”を見せるときは、「この小説はあれが駄目」「あの小説はここが駄目」と常に他者を引き合いに出さなければならないという滑稽さに気づかず、幻想の鎧すら傷つけないようにして過ごしていた日々。
『わたしの彼はハムスター』に対する愛おしさの理由は、そんなどうしようもなかった自分がやっと多くの人に自信を持っていえることを見つけ、書けたからではないだろうか。それは主役二人のやりとりの中にあり、今も変わらず自分の心を揺さぶるメッセージであり、だから自分の言葉として読んでも感情を抑えられなくなる。自己愛の極みといわれればそうだろう。だが、たとえ笑われたとしても愛想笑いを返す気にはなれない。伝えたいことを込めることができたこの小説は今も変わらず愛おしいのだ。

 ――数日後。

 最後の行を書き終えたのは、やはり皆が寝静まった夜中だった。
「……脱稿?」
 パソコンの前でさんざん泣いたあの日と同じく、ホワイトノイズのような耳鳴りだけがする静かな夜。私は口を半開きにし、両手をキーボードにのせたまま、呆然とモニターを見てなぜか語尾を上げて呟いた。きっと心のどこかで、『スクール☆ウォーズ』の最終回、全国高等学校ラグビー選手権で川浜高校が優勝した直後、監督の滝沢賢治(山下真司)がコーチのマーク・ジョンソン (チャールズ・モーガン)にいわれたような感じで、「脱稿したんだよ、ケイ、You did it!」とでも誰かに声を掛けてほしかったのだろう。
 だが、当然のように、声をかけてくれる人は誰もいない。リアルタイムでこちらから伝える相手もいない。携帯電話を持たずに黙って家を出て剱岳に単独登頂を果たして呆然としているようなものである。

剱岳

ファイル:Tsurugidake 20100127.jpg - Wikipedia

 しばらくはどうしていいのかわからない状態が続いたが、我に返るとまずファイルを上書き保存して、それからフロッピーディスクに書き込んだ。
 モニターの右下の時計を確認すると午前3時過ぎ。寝てもいいが、一秒ごとに興奮度が高まってとても寝られそうにない。インクジェットプリンタでの印刷はこの時間じゃとてもできないし、書き上げた直後の推敲はあまり意味がない。とりあえず、家でやることはなにもなさそうだ。
 お腹も減ってきたので、私は自転車でファミレスへ行くことにした。カジュアルウェアショップで買ったことは覚えているが、いつ買ったかは思い出せないよれよれの茶のハーフコートを羽織り、チェーンが錆びついてうるさい自転車を走らす。
 上半身はコート、下は裸足にスポーツサンダル。おそらく、繰り返し職務質問されている最大の原因であろうアンバランスな格好で、白い息を吐きながら空を見上げる。空気が澄んでいてオリオン座がはっきりと見える。思わずブレーキを掛けて自転車を降り、今度は押しながら自転車を進めた。

オリオン座

[素材]風と樹と空とフリー素材

 こうして夜中に自転車で出掛けることは何度もあった。でも、いつもなにかから目を背けるためにそうしていた気がする。今日は違う。私は星空を見上げたまま、自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。

 ――――信じられるか。
 小説家になって本を出すという夢に今日、ついに手を掛けた――――。

 推敲を終え、印刷した原稿を簡易書留で送ったのはそれから五日ほど経った頃で、Oさんからメールで原稿に対する反応が返ってきたのはそれから二日ぐらい経ってのことだった。

 原稿受け取りました。どうもありがとう。
 この後のことなんだけど、本を出版する前に社長が参加する会議があって、そこで承認をもらう必要があるの。工藤くんの小説を必ず通せるように頑張ります。多分大丈夫だと思うけど、こればかりは出してみないとなんとも……ね。
 それで、原稿に作者のプロフィールを添える必要があるので、工藤くんに自分で書いてほしいの。略歴と、あと簡単な自己紹介みたいなもの。好きな映画とかね。それじゃよろしく!

「……」
 私はネットスケープナビゲーターのメーラーに表示されている、Oさんからの、こんな感じの返信を何度も黙読した。Oさんが原稿を読んだことは間違いないだろう。でも、感想はどこにもない。よかったともなんとも書かれていない。だけど、Aさんがいったような駄目出しも書かれていない。ということはつまり、あの原稿は担当編集者であるOさんのところではとりあえずOKだったということなんだろうか。
 ぞくぞくっと鳥肌が立ったあと、今度は会議という言葉に引っかかった。『金田一少年の事件簿 謎ときファイル2』は、出版されることが前提だったためか、会議があってそこで認められないと云々という話は一切なかったが、本来は講談社であれ角川書店であれ存在するものなんだろうか。Oさんは納得してくれたとしても、他の人たちが駄目出ししたらそれで終わりということなんだろうか。最後の最後に、こんな壁が待ち受けているとは知らなかった。
 多分大丈夫という言葉に一瞬安堵するものの、その後の「出してみないとなんとも」という言葉で心の中が不安で満たされる。100%通るのであれば「大丈夫」だけで終わるだろう。なんともいえないという言葉が、過去、担当編集者のところは通ったけど会議で駄目だった作品の存在を暗示している気がする。だいたい、自分の経験から考えて多分大丈夫も安心はできない。ゲームショップでバイトをしていたとき、同じバイトで年下の女の子が入ってきた。最初は私への好感度が高かったような感じで、電話をしても声が弾んでいたような気がしていたが、いろいろあって徐々に下げ、ある日ライブに誘って、引きつった笑顔で「多分大丈夫」といわれ、当日、「おじいちゃんの具合が悪くなった」に変わり、その後、平塚の七夕祭りに誘ったら来たことは来たが、小一時間ほどぶらぶらして「もういいですか?」といわれて帰られたことを忘れてはいない。
 原稿はもう送ってしまったからもうどうにもならない。完全にまな板の上の鯉だ。今、自分にできることはプロフィールをしっかり書くことしかないと、私はプリンタからA4の紙を一枚掴み、ボールペンを手にプロフィールの下書きを始めた。

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