第百十四回 約束の扉


 編集者は打ち合わせに使う店の手駒をいくつか持っている。慰労用の飯がうまい店とか、打ち合わせ用の雰囲気がいい店とか、「なるほどなあ」と唸ってしまう店ばかりだ。たとえば、新宿で打ち合わせというときに複数の編集者が指定してきたのは『談話室滝沢』という喫茶店だった(2005年に閉店)。

滝沢の看板

Photo by t_iisaka

 新宿で飯を食いながら話すとなるとアルタのマックしか思い浮かばないという私にとって、ネスカフェゴールドブレンドのCMに出ていた頃の遠藤周作がその辺の席でコーヒーでも飲んでるんじゃないかと思わせる、昭和の匂いムンムンの雰囲気は衝撃的だった。
 Oさんが指定してきたのは横浜の崎陽軒本店。崎陽軒が全国的にどれぐらいの知名度を持っているのかはわからないが、とりあえず、横浜近辺に何度も来たことのある関東の人間同士なら、「シュウマイと言えば?」「崎陽軒」という会話が簡単に成り立つぐらいの有名な店だ。しかし、私が知っている崎陽軒は“JRの駅などにシウマイ(崎陽軒の表記)弁当を卸している会社”であり、食事が出来る店舗を持っているとは知らなかった。

崎陽軒本店外観

Photo by おんさき

 場所をインターネットで検索するついでに店の情報を集めると、かなり立派なレストランが中に入っているということがわかった。

 ――待ち合わせの日、当日。

 コートに綿シャツにジーンズといういつもの代わり映えしない格好で横浜駅東口の待ち合わ場所へ行くと、既にOさんが待っていた。
「あ、どうも、わざわざすみませんでした」
 慌てて駆け寄り、頭を下げると、パンツルックのOさんは顔の表情を変えずに「それじゃ行こうか」とだけ言って、すたすたと歩き出した。
 あまりフレンドリーとはいえない雰囲気に焦りつつ、横に付きながら、とりあえず前方に視線をやる。他にやり場がない。
 近くにいる人の空気に圧倒されて言葉が出て来なくなったとき、私は鼻の下を人差し指で横にこすって鼻を何度かすするというのが癖だが、その癖が何度か出てもOさんが話し掛けてくるということはなかった。当然、私がリードして会話を弾ませるというのもできない。
 怒っているというわけではないと思うが会話がないのは気になる。このまま会話なしに店まで行くことになるのだろうか。食事ではどうなるんだろう。
 横浜は新宿ほどではないが人が多く、でも新宿と違って、サラリーマン、OL、家族連れ、カップルと、素性が見てなんとなくわかる人たちばかりが闊歩していた。その中で、服装がアンバランスでどう見てもカップルではない、姉弟でもない、でも一緒になって歩いている私とOさんは、傍から見たら謎の二人組に思えるだろう。拍車をかけているのが無言状態だ。
 とにかく、大事なのはラストシーンのことだ、自分の意見をきちんと伝えられるようにしておこうと頭の中でシミュレーションを始めると、突然「あ」というOさんの声が聞こえた。
 不意をつかれたので、少しびっくりしてOさんの顔を見た。
「原稿ありがとう」
「あ……」
 そこで私の目に映ったのは、待ち合わせ場所で会ったときのポーカーフェイスとは違い、授賞式で会ったときの笑顔だった。
「あ、いや、こちらこそありがとうございました」
「いい内容だと思います。編集部でも誉めている人が多いですよ」
「え、ほんとですか」
 編集者は駄目出しのときは多弁だが、いいときはなにも言わないの法則というのがあるのか、講談社のAさんと同様にOさんもOKのときはただ話を進めていくタイプだったので、原稿の出来が自分以外の人間にはどう思われているのかというのが気になっていたからほっとした。
「それだけに続編のことも考えないとね」
「そう……ですね」
 ここ最近、続編とラストの変更は対になっているので、一瞬、相づちを打つのに躊躇してしまった。続編という話があるのは素直にありがたいと思う。実は、この段階で構想もあった。ただ、あのラストを変えるというのはどうしても受諾出来ない。もし、続編を書かせてもらうことになるとしても、今作のラストは絶対にあのままでというのが私の思いだ。

 崎陽軒本店のレストランで出た料理は、非常に美味しい中華料理だった。崎陽軒だからシュウマイづくしなのかなと思っていたが、シュウマイもあったという感じで、こんな明るいうちからこんなに豪華なものを食べさせてもらっていいのかなと恐縮してしまうようなコース料理だった。
 Oさんは編集部の反応をさっきよりも詳しく語ってくれたり、ティーンズルビー文庫の現在の状況と今後の予定、そして、他の新人作家が、今、どういう状況なのかということを話してくれたりした。予定通りに行けば、授賞式で顔を合わせたみんながほぼ同じ時期にデビュー作を刊行するはずだ。私はあの中ではただ一人の男性であり、書く話の毛色もだいぶ違うはずなのでライバル意識剥き出しなんていうことはなかったが、今まで自分みたいに物を書いている知人というのが皆無だったので、皆がどういう本を書くのかは気になっていた。
 なるほど、なるほどとひたすら感心して頷き、烏龍茶が入ったグラスを持ち上げて傾いていたストローを伸ばすと、それまで他の新人作家のことを語っていたOさんが一瞬口をつぐみ、急に方向転換するように今までよりも低く、そしてゆっくりとした口調で言った。
「それで、例のことなんだけど」
 ちょうどストローに口をつけたときで、口が塞がった状態で返事をしようとしたため、危うく鼻水が出そうになった。
「あ、はい」
「電話でも話した通り、続編のことを考えるならあのラストは変えた方がいいと思う。でも、工藤くんはどうしても変えたくないんだよね」
「そう、ですね」
 Oさんの言葉を聞きながら、ストローから右手を離し、膝に置いて俯いた。周りからは怒られているように見えたかもしれないが、私は、どうすればOさんにあのラストへの思い入れを不足なく説明できるか、その意気込みでみなぎっていた。
「どうして?」
 問い掛けがシンプルな分、Oさんも真剣なんだということがよく伝わってきた。もし、私がこれから語る理由で納得できなければ、逆に私を説得してくるだろう。
「あのラストなんですけど」
 そう言って顔を上げた。
「賞を取ったハムスターでは、ラスト、二人はこのまま一緒に暮らすっていう感じでしたよね」
「うん」
「でも、それはいろいろと無視しているということになると思うんです」
「無視?」
「あの、未来で待ち受けているであろう様々な困難は無視して、今がいいからそれでいいじゃんという話になってしまっていると思うんです。だって、人間とハムスターじゃないですか。ずっと一緒に暮らすなんてできるわけがないです。早晩、困難に直面するはずですよね。そのあと、いくつか考えられる選択として別れというのは必ずあると思うんです。女の子が読む小説で、男女が別れて終わるというのはあまりないかもしれませんけど、彼女たちが小学生とか中学生だとして、いずれそういう選択をしなければならないときが来ると思います。だけど、その別れという選択は必ずしもネガティブなものではなく、もっと前向きな、ポジティブな別れもあるということを伝えたいんです。前に進むための別れっていうか……現実でも学校を卒業すれば読者の子たちは親友と別れることになるかもしれないわけですけど、それは悲しむだけのものではなくて、あの、すみません、うまく伝わってるかどうかわからないんですけど、一時も悲しみを味わいたくないから現実から目を背けるのではなく、お互いを信じ合っていれば悲しみだけではない別れもあるということを書きたいというか、書いたつもりなんです。もしあのラストを変えるということになると、それがなくなってしまうんです」
 案の定というか、途中から熱くなって言葉を制御できなくなり、自分でもなにを言っているのかわからなくなった。説明というよりも、俗っぽく“わけのわからない演説をぶっこいた”と言った方がおそらく合っているだろう。Oさんに伝わったのはきっと“ラストシーンだけは変えたくない”という気持ちだけだ。

 私の演説の途中から演説後もしばらく、Oさんは無言だった。最初は私の顔を見て話を聞いていたが、やがて視線を下に落とし、話が終わると今度は視線を窓の外にやってなにか考えているようだった。
 私はもう言い切ったという感じで、刺さったストローの先が変な方向を向いている烏龍茶入りのグラスの縁をずっと見ていた。
「わかりました」
 Oさんの口ぶりはおだやかだった。
「工藤くんがあのラストにすごく思い入れがあって、どうしても変えたくないという気持ちはよく伝わりました。そこまで思い入れがあるなら、変えられないよね。それじゃ、ラストはそのままということにしましょう。続編がまったく考えられないというわけでもないしね」
 多分、私がOさんを説得できたわけではないのだろう。Oさんが折れてくれたのだ。
「はい!」
 Oさんは私の返事に無言で頷くと、表情を崩してちょっと肩を上げながら言った。
「それじゃ、原稿はあのまま校正に回します。わたしと校正の人で原稿をチェックして、そのあと、工藤くんに宅急便で原稿を送るから赤を入れて返送してね」
 そして、なにか思い出したという風に口を少し開けて、悪戯っぽい微笑みを浮かべてながら続けた。
「あんまり直さないように。著者校でたくさん直しが入ると大変だからね」
 私が大量の赤を入れた原稿を前に、勘弁してくれという顔で頭を抱えていた編集プロダクションのKさんの顔が不意に思い浮かんだ。
「原稿はOKということになると、あと残っているのは絵を誰に描いてもらうかっていうことなのよね。まあ、頭の中であの人の絵がぴったりじゃないかというのはあるんだけど、向こうのスケジュールの都合とかもあるから、とりあえずまだ決められない。でも、多分、描いてもらえるんじゃないかなって思うから、決まったら連絡します」

 ラストの変更という提案があってからずっと、私が歩んできた長い道の先にあったトンネルの中、光が漏れている閉じた両開き扉を前にその扉に手を掛けられないまま立ちすくんでいるような感じだった。それが今、私が左の扉に触れたと同時にOさんが右の扉を押してくれて、私がずっと辿り着こうとしていた場所がついに姿を現した、そんな気がした。その場所には光に目が慣れていなくてがなにがあるのかはまだ見えないが、小学五年生のときからずっと、いつかそこへ行くと決めていた自分自身の約束の地が目の前にあるのはもう間違いなかった。

 不意に腰の辺りから肩まで体の内側から撫で上げられるような武者震いがした。子供の頃から馴染みのある感覚。ずっと欲しかったものをようやく手に入れる寸前に必ず来るものだった。

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