第百十五回 発売日決定


 Oさんとの話し合いが終わってすぐ後、角川書店アニメコミック事業部の新春感謝会が行われ、私は二度目の出席を果たした。前回同様、私が二十歳ぐらいの頃、亡き母が就職面接用にと買ってくれたダブルのスーツを着ていったのだが、スーツもネクタイも一年でこの日ぐらいしかしないので窮屈で仕方がなかった。革靴に至っては苦痛にすら感じる。
 とはいえ、前回は授賞式に出席してから担当編集者に連れられて他の受賞者みんなで会場入りだったのに比べ、今回は直接家から会場に入ったので、自分のスーツ姿と相まって、まだ本が出ていないのにもかかわらずなにか偉くなったような感じというか、一本立ちしたような感覚があった。また、本が出ることがほぼ決まっているので前回感じた凄まじい場違い感もなく、ゲストとして来た栗山千明の挨拶などを聞きながら余裕を持ってただ飯を食べられた。
 去年よりも会場が狭くなったような気がするが、それでも、明らかに三桁を超える業界人たちがそこかしこにいる光景は壮観だ。司会進行役は私でも聞いたことのあるような名前の声優だし、私の向こうの向こうぐらいの距離にはあの竹宮恵子がいる。
「工藤くん」
 しかし、どのグループに入ろうとしても浮いてしまうので、キラキラとふわふわの服が交錯して眩しいほどに輝いている女性作家たちが賑やかに談笑しているルビー文庫エリアで、ひたすら食べることに専念している面接用スーツ姿の私を哀れに思ったのだろう、Oさんが見つけて話し掛けてきてくれた。
 会場は作家と漫画家とイラストレーターと編集者でごった返していたが、編集者は知らない人でもこの人はきっとそうだろうと一見してわかる。クリエイターたちが着飾ってくる分、編集者たちはリクルートスーツのようなあまり目立たない服をまとって黒子に徹しているからだ。
「あ、こんにちは」
「ここだと、男の人、一人だけになっちゃうから大変よね」
 Oさんは肉を口にためている私の顔を見て笑いながら言った。
「はあ、でも、美味しい物が食べられるんで」
「ほかの新人さんたちとはもう会った?」
「はい、だいたいみんなと会ったと思います」
 去年の授賞式で会った女性作家さんと顔を合わせると、デビュー作の執筆状況はどうという話になったが、私同様、みんな、長編を書くのに苦労しているようだった。
「もし、工藤くんが会いたいという作家さんがここに来ていたら紹介してあげられるんだけど、ルビー文庫だとちょっと難しいよね」
「そう……ですね……」
 すっかり孤立している私を気の毒に思ってOさんが話を振ってくれたが、私は視線を少し上に向けた後、力なく言った。
 ちなみに、なぜルビー文庫の作家を紹介するのは難しいのかと言えば、ルビー文庫というのは基本的にボーイズラブ小説を扱う文庫で女性向けの内容だからである。男性である私は、ルビー文庫の作家を知らないだろうとOさんは察してくれたのだ。
「漫画家さんとかはどう? 向こうにたくさんいるけど」
 Oさんが視線を向けた先には、今、私が立っているエリアとは真逆といえるほど男性がごった返しているエリアがあった。
 私もOさんに合わせてそちらに視線を向けながら考えてみたが、普段読んでいる漫画雑誌の中に角川書店発行のものがなく、会場に来ている可能性が高い漫画家というのがまったく出てこない。あまりずっと考え込んでいるのも失礼なので、「いやあ、すみません、漫画はそんなに読まないので……」と適当に誤魔化した。
 そっかとOさんは少し残念そうに言ったあと、首をくるっと回して私の方を見た。
「そうそう、絵を頼んでいた漫画家さん、引き受けてくれそうなの。今日来ていれば紹介出来たんだけど、来てないみたいなのよね。著者校用の原稿ももうすぐ送れると思うからよろしくね」
「あ、はい、え、そうなんですか」
 どちらの内容にも返事をしようとして、おかしな言葉になってしまった。著者校正用の原稿も勿論気になるが、イラストを描いてくれる人もそろそろ本気で気になる。
 ジュブナイルにおける表紙の重要性というのはよくいわれるところだ。私が中学生のときはハヤカワミステリ文庫とか創元推理文庫ばっかり買っていたが、もし嗜好のベクトルがミステリではなくライトノベルへ向いていたとしたら、やはり表紙買いをしていただろう。
 どういう絵を描く人なんだろう。きっと女性の漫画家さんだと思うが、誰なんだろう。もし知らない人であれば著作を読んでみたい。
 だが、「あの、ところで……」と言いかけたときには、もうOさんはいなかった。去り際に、会が終わったあとに新人作家だけを集めて懇談会をやるから参加してねと言っていたような気がする。お楽しみの発表はまだもう少し先ということなんだろうか。私はしばらく顎を左手の指の先で触りながら目をしばたたかせていたが、今度聞けばいいやと再び皿の上の食べ物を口に入れ始めた。

 著者校正用の原稿がペリカン便で送られてきたのは、Oさんが言ったようにそれからすぐのことだった。
 角川書店のロゴが入った大きな封筒を慎重にはさみで切って、右手を差し入れて原稿を取り出した。ずっしりとした厚みは想定内だったが、印字されているフォントを見て肩より上がぶるっと震えた。
 家にある、金田一の原稿料で買ったプリンタで打ち出されるものとはまったく違う、あきらかに業務用、普段、私が市販本で目にしているものだった。実質的に、市販される状態の『わたしの彼はハムスター!?』を初めて目にしたということになる。
「……」
 体の震えと連動するかのように、唇の端の震えが止まらなくなった。内容は自分でもわからないが、言葉が口からあふれそうになる。もし、家が野原に建つ一軒家だったら、記号で表されるような意味不明な言葉を大声で叫び続けながら、原稿を両手で頭の上に持ち上げて走り回り出すかもしれない。
 このままではまともな精神状態で校正作業を行えそうにないので、とにかく気を静めることに集中した。テレビなどを見たり、外に出てしまうと今度は集中力がなくなってしまうので、部屋の真ん中であぐらを掻き、なにを見るというわけでもなくただ視線を前に向けた。
 しばらくして、鼻から大きく息を吸い込んで深呼吸し、ゆっくりと原稿をめくった。印刷されてまだそんなに経っていないはずなのに、なぜか皺があちこちに寄っていてくたびれた状態。私はすぐに、校正を行った人が何度も何度も繰り返しめくったからというのがわかった。それを示すように、細かく文字が文字が書き込まれている。
「緊張する」
 思わずそう口に出て、私はそれが落ち着いた合図だと考え、再び鼻で大きく深呼吸を行い、ペンを持って原稿と相対した。

 著者校についてなんだけど、工藤くんが新たに入れるところ以外で、校正の人が鉛筆で入れてくれている部分を確認して、もしその通り行っていいというときは赤いペンで上書きしてください。その原稿は一つしかないから綺麗に扱ってね。破ったりしないように。それと絶対になくさないでね。

 初見でまずここを直そうという部分がいくつかあったが、原稿が送られてくる前に届いたOさんのメールを思い出して、体が固まる。ペンのキャップを外して何度か書き込もうとしたが、そのたびに反発するかのようにペンと原稿の距離が離れた。
 まさかコピーを取っていないということはないだろうが、校正の人の手による修正は直接鉛筆で書き込まれているから、これが“原版”であることは間違いない。
 金田一のときは、私が最初に校正を行ったので失敗しましたと言えばいくらでもやり直しがきく環境だったが、これは、いきなり赤を入れて「あ、間違った」と勢いでぐしゃぐしゃっと塗り潰したりしたら、シャレになりそうもない。今俺がやろうとしていることは、漫画で言えば、下描きなしでいきなりペン入れということになるなと思い、とりあえず鉛筆で校正して、最終的に一から見直してそのまま校正するという場合は赤ペンで上からなぞることにした。
 校正は単なる誤字脱字だけではなく、

フォント:さなフォン

 上のように、設定の矛盾などもきちんと指摘してくれていた。
 ちゃんと読み込んでくれているんだなあと感心するとともに、改めて思った。純文学でもミステリでもライトノベルでも、そして少女が読むジュブナイルでも、大人が何人も集まって真剣にいい作品にしようと思って、膨大な時間と手間を掛けて世に送り出しているんだということを。出来不出来は当然あるだろう。しかし、係わっている大人たちはみんな真剣に読者に向き合っているのだ。

 著者校正の締め切り日数は執筆のそれに比べると格段に短かったが、与えられた時間を目一杯使って、ぎりぎりで原稿を返送した。この時点で、『わたしの彼はハムスター!?』は完全に私の手から離れたということになる。
 それからしばらくして、Oさんから以下のような感じのメールが届いた。

 原稿ありがとう。そして、本当にお疲れさま。
 発売日についてなんだけど、編集部でいろいろと協議した結果、4月1日のラインナップに乗せるということになりました。条件的には3月の方がよかったんだけどね……。でも、月刊ASUKAに広告を出したり、全力でバックアップしていくからね。
 あと、印税の振込先をメールで教えてね。

 それとイラストについてなんだけど、秋山たまよさんにお願いしました。この間、表紙のラフが上がったんだけど、すごくかわいくて内容にぴったりだと思いました。4月1日の一週間ぐらい前に著者用の見本を送るから楽しみにしていてね。
 それじゃこれからも頑張りましょう!

 発売日、印税、表紙画のラフ、著者用の見本と魅惑のキーワードてんこ盛りの内容に、私は身の震えと同時ににやけ顔を抑えられなくなった。
 今まで友人に対して「もうすぐ」という曖昧な言葉を使っていた発売日がとうとう4月1日と具体的になり、話題にすら上らなかった印税という言葉が初めて出てきて、都市伝説の一種なのかもと思っていた、作家になって本を出すと10冊送られてくるという著者見本の存在が本当だとわかり、私のデビュー作の顔となる表紙のラフが出来たという。
 自分の心の中でどれをどう処理していこうか興奮でしばらくわからなくなったが、印税の振込先を教えてとあるので、とりあえずそれをOさんに連絡して、もう一つ、お願いすることにした。

 振込先は上記のものになります。よろしくお願いします。

 それで一つお願いがあるのですが、もしよろしければ、表紙のラフをFAXで送っていただけないでしょうか。本が出来上がるまでのお楽しみにしようと思いましたが、一刻も早く見てみたいという気持ちを抑えることができません。もし送っていただけるなら永久保存したいと思います。図々しいお願いですがご検討いただければ幸いです。

 ――そして。

 夜、電話の呼び出し音が鳴った。取ってみると、FAXを受信する時の電子音が耳に響いた。慌てて受話器を戻し、紙の排出口を凝視する。カタカタという音とともにFAX用紙がじらすような動きで出てくる。まだ受信が終わっていないのに私は右手で掴んだ。受信が終わった時にすぐにひっくり返して見るようにするためだ。
 やがて、

 ――ファックスノ ジュシンシヲ シュウリョウシマシタ

 電話機から女性のアナウンスがして、短い電子音が何度か繰り返されて紙が切断された。私は電話機から近い玄関の明かりを点けてゆっくりとFAX用紙をひっくり返した。

 そこには主役の二人、そしてハムスターの姿があった。

目次へ

▲このページの先頭へ戻る