第二十九回 後悔しないために


 Kさんによる授業が終わり、赤いペンを持って校正に取り掛かった。
 私は、牛が食べた物を吐き出して軟らかくしてからまた食べるという感じで、原稿用紙1枚分書いては最初から直し、また原稿用紙1枚分書いては最初から直し、と文章を何度も何度も自分の中に取り入れて創作するタイプだ。
 だが、金田一は、締め切りが押し迫っていたので書いた文章を見直した記憶がまるでなかった。
(どんな感じかなぁ)
 お化け屋敷に入るような気持ちで、とりあえず、最初の一ページを読んだ。
(まずい……)
 私は額に皺を寄せた。
(想像以上にひどい)
 誤字、脱字以外にも、日本語としていまいちな文章が次から次へと目に飛び込んできた。主語がどこに掛かっているかわからなかったり、同じ接続詞が繰り返し出てきたり、助詞の使い方がおかしかったり、正直、紙には書ききれないと思ったほどだ。一ページ目でこれでは先が思いやられる。
 それでも、とりあえず修正を入れようと赤いペンを動かし始めた。みるみるうちに真っ赤になる紙。
「……ん?」
 読んでいくと、既にいくつか直されている部分があった。多分、Kさんが校正をしたんだろう。どこも確かにその通りという修正で頷いていたのだが、一箇所だけどうにも腑に落ちない所があった。
「あの、Kさん」
「ん?」
「ここなんですけど、どうして直されているんですか?」
 マックのキーボードを叩いていたKさんが手を休め、私の方へとやって来る。
「あー、これは二重表現だからだよ」
「二重表現?」
「ほら、上に上がるって書いてあるよね。これっておかしいだろ? 上がるっていうのは絶対上に行くわけで、わざわざ上にと書く必要はない。だから取ったの。ここ削ると、一行稼げるしね」

 上に上がる。下に下がる。

 映画「ラヂオの時間」でもナレーター役の人が言っていたが、上に上がる、下に下がる、といった表現は人前に出す文章に入れるには適切ではない。え、でもよく使うじゃん、どこがおかしいの? と私のように思われる方は結構いると思うが、では、「頭痛が痛い」という表現を聞いたらどうだろう。その表現はおかしいよ、と言いたくならないだろうか。上に上がるも下に下がるも同じことなのだ。
「上に上がる」は「上に(へ)行く」、「下に下がる」は「下に(へ)行く」とするのが正しいだろう。
「そうかぁ、なるほどなぁ」
 すっかり感心し、晴れやかな顔で校正を再開した私だが、Kさんの顔は徐々に曇っていった。
「ちょっと待て」
 そう言って、校正中のゲラを取り上げる。
「これって……」
「はい」
「直し過ぎじゃねえか?」
 Kさんの声のトーンがぐっと上がった。
「え、そうですか?」
 私はとぼけた表情でそう言ったが、Kさんはなにも答えず厳しい表情で真っ赤なゲラを読んでいく。
 顔を何度もしかめて、困ったような表情をしてため息をつき、私にゲラを見せる。
「なんつうか、こことかこことか、別に直さなくてもいいんじゃないかな。元のままでもちゃんと日本語として意味は通じているし、ここまで細かく直す必要はないって」

 私は、著者校正の時に「いやー、工藤ちゃん、もう君が納得いくようにバンバン直しちゃってよ!」と言う編集者にはいまだかつて会ったことがない。ほとんどの人が、「修正はほどほどにお願いします」と言ってくる(最近は、始めの段階で直さなくて済むような原稿を書けるようになったので、校正で迷惑掛けることはないと思う)。
 恐らく、過度に校正されたゲラというのは、いろいろなトラブルを生むのだろう。

「いや、でも」
 そんなことを考えるだけの余裕と経験がなかった私は、こう言い返した。

「やっぱり、後悔したくないのでそれでお願いしたいんですけど」

 この後、交通事故で死ぬかしれない。電車が脱線して死ぬかもしれない。いや、無事に生きられたとしても本を書くのはこれが最後かもしれない。
 この世に一冊だけの自分の本。
 妥協していいんだろうか。
 それじゃ、あまり修正しないようにします、なんて言えるだろうか。
 確かにプロダクションの皆さんには迷惑がかかるだろう。何人かの人が徹夜していることも知っていたし、あまりの激務に、トイレで吐いている人だっていた。
 私だって頭がおかしくなりそうになっていた。本当に完成するのか、本当に出版されるのかという不安を抱え、以前にも書いたが、家の前の道路を「うおおおおおおおおおおおおおおお」という奇声をあげて走りたくなったし、家の窓ガラス全部を割りたい衝動にも駆られた。プロダクションに出勤しなくてもいい土日も、真夜中に頭を掻きむしりながらキーボードを打っていて泣いていた。苦しくて苦しくて、組んだ両手を思いっきり振り下ろし、パソコンを叩き壊したくもなった。
 しかし、だからこそ、じゃあ校正はほどほどに、としたくなかったのだ。こんなに苦労したんだから、納得いくまで修正をしたかった。
「しょうがねえなぁ……」
 Kさんはそう言ってため息をつくと、ちょっと怖い微笑みを浮かべて口を開いた。
「わかった。納得行くまでやってくれ」
 Kさんも他の仕事と平行して金田一をやっていて、精神的にはギリギリだったと思う。怖い微笑みがそのことを物語っている。
「すいません、ありがとうございます」
 申し訳なかった。でも、同時にやったと思った。これで納得いくまで修正出来る。悔いなくこの仕事を終えることが出来るのだ。
 私は返されたゲラに向かってペンを走らせ始めた。

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