第三十回 東京の夜


 すべての校正が終わったのは三日後ぐらいだったと記憶している。一度、私が校正を行った後、今、「ナンプレファン」で私の担当をしているTさんなんかがチェックし、また私に戻ってきて再度校正を行ってようやく終了した。
 あまりにごちゃごちゃしていて、なにがどうなっているのかよくわからないとさえ言われた校正だったが、私としては満足のいくものだった。もう直す所はない。悔いなしである。
「これでお願いします」
 そう言ってゲラを差し出すと、いつものようにマックのキーボードを叩いていたKさんは体を反転させ、「おっ」という表情で受け取った。
「ついに出来たか」
「はい」
「よし、ご苦労様」
 何枚かめくった後、Kさんはそう言って微笑み、顎の無精髭をさすり始めた。
「あとは……何かやってもらうことはあったかな……あ、そうだ、雑誌の方でなんか書いていくか? 雑誌の方はまだいっぱい仕事残ってんだよ」
「え、まじですか?」
 私がそう言って苦笑いをすると、
「あははは、嘘だよ嘘。工藤君の仕事はこれで終了かな」
 と、Kさんは表情を緩ませた。
「ま、ひょっとするとなんかトラブルがあったら来てもらうかもしれないけど、大丈夫だろ。本当にお疲れ様でした」
「あ……お疲れ様でした」
 今振り返ってみても壮絶な仕事だった。暇という言葉がまったく存在しない三週間。髪を掻きむしり、時にはぶちぶちと抜きながらただひたすらパソコンに向かっていた。終わりは意外なほどあっけなかったが、肩に入っていた力が一気に抜けるような感じがした。
 本当に終わったんだ。もう、毎日2時間も掛けて通わなくていいんだ。人を殺す方法を考えなくていいんだ。
「Aさんの方はどうなってるの?」
 小さくため息をついた私に、Kさんがそう聞いてきた。
「あ、まだ具体的には何も聞いてないんですけど」
「そうか。まあ、とにかく、頑張って作家としてデビューしてくれよ。で、売れっ子になったら俺がマネージャーやるからさ」
 Kさんの言葉に周囲から笑いが起きる。
「ま、その辺は冗談として……」
「え、冗談だったの? 本気で言っているように見えたけど」
 Tさんからそんなツッコミが入ったが、Kさんは笑顔でそれを交わし、穏やかな表情で私に語りかけた。
「Aさんと仕事をすれば、きっといい経験になるよ。あの人は編集者として一流だからね。とにかく、頑張ってくれたまえ。機会があったら、また一緒に仕事しよう。もし、金田一の3が出るということになったら、また君に頼むつもりだしね。そういう話がなくなったとしても、いつでもここに遊びに来てくれていいし」
「はい」
 正直、謎ときファイル3が出ることになったとしても、また僕が書くというのは勘弁して下さいという心境ではあったが、また一緒に仕事しよう、いつでも遊びに来てくれていいというKさんの言葉は本当に嬉しかった。
 自分の席に戻ってプロダクション内唯一のWindowsマシンの電源を落とす。私が来る前はへんぴな場所に押し込められていたこいつに、友情のようなものを感じ始めていた。もうお別れかと思うと寂しかった。仕事が終わった時、「このパソコン、譲ってくれませんか?」と言うつもりもあったのだが、Windowsも必要なんだよなという話を聞いたので結局言い出せなかった。
 リュックにフロッピーディスクや、広辞苑のCD-ROM、使い慣れたマウスなどをしまう。
 もう嫌だ、もう嫌だ、と吐き気すら感じてここまで通っていたのに、いざ終わりとなるとなぜか帰りたくなくなっていた。明日来る気はさらさらない。でも、もう少しここにいたいなと思った。

 ハリソン・フォードの逃亡者をテレビで見ていた時に届いたメール。あの一通のメールをきっかけに多くの夢が実現した。Kさんを始めとする編集プロダクションのみんなと知り合い、講談社に足を踏み入れ、Aさんと会い、一冊の本を書き上げることが出来た。
 18歳の時からアルバイトという不安定な立場で、小説家を目指してきた。いや、小説家を目指してきた、と言えば聞こえはいいが、一心不乱に書いていたのは20代前半までで、25歳を過ぎた頃には(こんなんで結婚出来るのかなぁ)(就職しないと年取って生きていけないんじゃないかなぁ)と不安ばかり感じていて、小説を書く、小説家になるという気持ちは薄れ始めていた。
 小説家になるという夢も大事だが、人間として、人並みに恋愛をして結婚をして、子供を作って、育ててという幸せを得ることも大事だ。
「小説家になりたい」と女の子に真顔で言うと思いっきり引かれるという状況で、私は夢を諦めかけていた。
 だが、もう一度だけ頑張ってみよう。これで駄目だったらすっぱり諦めよう。
 そう思ってCDショップのバイトを辞め、ホームページを作り始め、貯金がなくなったらIBMのバイトで稼ぎ、小説ASUKA新人賞に応募した。
 編集プロダクションからのメールは、もう一度頑張ってみようと思った私に、特別ななにかがくれたプレゼントだったのかもしれない。

「それじゃ、お先に失礼します」
 リュックを背負った私は、そう挨拶をした。
「お疲れ様でした」
 編集プロダクションのみんなの声が響く中、Kさんが最後に言った。
「また会おうぜ」

 狭いエレベータへで一階まで降り、マンションの扉を開けると、外はもう暗くなっていた。
 プロダクションの近くにある中華料理屋。もう、ここで炒飯やワンタン麺を食べることはないのかなぁと思い、また寂しくなった。
 コーヒーゼリーを買ったローソン、毎日の打ち合わせのたび、ミートーソースを食べたレストラン、貧弱な品揃えながらプロダクションに行く前によく立ち寄っていた書店、初めての原稿料が本当に振り込まれているかどうか確認した銀行。
 あのメールがなければ一生見ることがなかったであろう景色だ。
(……運命って本当に不思議だな)
 そう思いながら足を止め、ふと空を見上げる。
 東京の夜はあまりにも明るく、一等星すら見えない。本当はたくさんの星が輝いているはずなのに。
(バイトを辞めて、プロとして本当にやっていけるのかな)
 そんな不安がよぎる。
 誰も見てくれないんじゃないか。いや、東京の空に浮かぶ星のように、俺の存在なんて見えないままで終わるんじゃないだろうか。
 だが、次の瞬間、私の心は燃えた。

(ここまで来たんだ。まだまだ前へ行けるはずだ。やってやろうじゃねえか)

 リュックを背負い直し、私は再び歩き始めた。

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