第三十七回 難しい注文


「お料理いかがいたしましょうか?」
 先ほどの和服姿の女性がAさんの右肩の方に回って、少し膝を折って穏やかな口調で言った。
「あ、運んできて下さい」
「かしこまりました」
 笑みを湛えて頭を下げる女性を無言で見ていると、Aさんがビール瓶を持って、まだ一口分ぐらいしか減っていない私のグラスにビールを注ごうとした。
「あ、すいません」
 慌てて入っていたビールを全部飲み干し、注いでもらう。私は酒よりコカコーラの方がいいと思っている人間だが、酒が飲めないわけではない。むしろ、人と比べてかなり飲める方なのでこういう時には困らなくて済む。
「まあしかしあれだね」
 顔がほんのり赤くなってきたAさんが、ちょっと顔を背け、流し目をしながら笑って言う。
「なかなかいい出来になったと思うよ。イラストもいいし、内容もいい。君とK君が頑張ってくれたおかげだよ。売れてくれるといいなぁ。30万部とは言わないまでも、15万ぐらいいってくれると嬉しいなぁ」
「そうですね、ほんとに」
「――お待たせいたしました」
 気がつくと、和服姿の女性と料理人らしき若い男性が皿を持って立っている。
「あ、すいません」
 Aさんがひょいとのけぞると、醤油皿と、ちょっといびつで、だけど気品がある四角い土色の皿が二つ置かれた。お刺身が綺麗に盛りつけられており、周囲は大根やしそで美しく飾られている。
 女性は刺身がなんの魚のものか説明してくれたが、はっきり言ってまったく覚えていない。ただ、聞いたことはあるけど食べたことはない魚がいたような記憶はある。
「工藤君、遠慮しないでどんどん食べて」
「あ、はい」
 Aさんが箸を付けるのを待って、私は恐らく鮪ではないかという刺身に箸を伸ばした。
(……)
 想像通りうまい。父親が買ってくる、臼歯と親知らずの間に筋が挟まる安い鮪もあれはあれでうまいが、うまさの度合いが数段上である。
 その後も、食べたことのない高級食材がこれでもかと出てきて、私はもうただひたすら出された物を口に運ぶしかなかった。

「で、工藤君」
 顔がかなり赤くなってきたAさんが上機嫌な表情でそう言った後、持ってきた鞄の中をまさぐって一冊の文庫本を取り出した。
「仕事の話になるんだけど」
「あ、はい」
 私は箸を置いて、目の前に出された本を見た。ピンクが基調となっている表紙デザイン。
「乃南アサ……」
 著者名はそう書いてあった。
『幸福な朝食』(確か、浅野ゆう子主演でドラマ化されたはず)で第1回日本サスペンス大賞優秀賞を受賞した女流作家。読んだことはないが、それぐらいの経歴は知っている。タイトルは『鍵』とある。
「読んだことある?」
「いえ、ないです」
「そうか。まあ、この本は一応ミステリなんだけど、なんていうのかな家族の愛と友情が書かれているんだよね。でね、僕は工藤君に友情を書いてほしいと思っているんだ」
「友情ですか」
「そう」
 私の言葉に頷くと、Aさんは本の下を持って何度も裏表に回しながら言う。
「大人の友情と言うべきかな。今の子供……いや、昔からかもしれないけど、彼らは大人に対してあまりいいイメージを持っていないよね。君がどんなキャラクターを作るかわからないけど、たとえば、教師がいて刑事がいるとする。二人は喧嘩したりなんだりするけど親友なわけだ。そんな二人のやりとりを見て、子供が『なんだ、大人ってのも結構いいじゃん』と思ってくれる、そんな話を書いてほしいんですよ。僕が君に期待しているのは、若さとユーモア。それを使ってなんとか書いてくれないかな」
「はぁ……」
「でさ、君に出してもらったプロット、これには殺人があるよね。編集部でもいろいろ話し合っているんだけど子供に読ませる話に殺人はどうなんだろうと僕は思うんだ。殺人を見せなくても、言いたいことは伝えられるんじゃないかなと。だから、殺人はなしでやってほしいんです」
 Aさんの口から私への期待と注文よどみなく出てくる。
 私は弱々しく首を縦に振りながら、頭の中では(難しいですよ、それは、まじで)と何回も泣きを入れていた。大人同士の友情を書くことで、子供に友情の大切さを伝えるというのも難しいし、児童書なのに主人公が大人(しかも、学校を舞台にした話で、子供がわんさか出ているのに)というのもまた難しい。大人がとりあえず前面に立っているが、真の主役は子供というパターンではなく、前面に立つのも主役も大人なのだ。直球ではなくナックル級の変化球、決まれば超絶かっこいいが、暴投の危険性が極めて高い。
 しかも、ミステリーなのに殺人はなし。いわゆる日常系というやつにすればいいのだろうが、それで何百枚も書けるんだろうか。殺人物しか読んだことがなく、書いたことがない私にとって、殺人というのは蒸気機関車(ストーリー)のボイラーにくべる石炭のようなものである。燃料をくべずにどうやって話を動かしていったらいいのか。
 考えれば考えるほどわからなくなっていく私に対し、Aさんは言った。
「原稿は出来るだけ早めにもらいたいね。三カ月後とか」
 そして、私のグラスにビールを注ぐ。私は慌ててグラスを持ってなぜか唾を飲み込んだ。
「とりあえずさ、その本読んでみてよ。あ、もし書いている時に資料とか欲しくなったら遠慮なく言って。講談社の本だったらこっちで用意して送るからさ」
「……はい」
「工藤君には期待しているよ。とにかく、よろしくお願いします」
 Aさんの言葉を聞きながら、私は呆然と乃南アサの本を持った。

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