第三十八回 夜の街


 二人の宴というか、話し合いというか、それは私がすべてにおいて未熟だったためぎこちなかったが、とりあえず続いた。
「工藤君は最近何読んだの?」
「最近ですか……。いやあ、金田一にかかりきりであんまり」
「本は読んだ方がいいよ。もう、いくら読んでもいい。あと、人間観察ね。例えば……」 
 Aさんは右斜め後ろに体をねじって視線を動かし、テーブル3つ分ぐらい離れている所にいる男女連れを見た。
「あそこにいる男女を見て、君はどう思う」
「……」
 私は目を細めて男女を見た。女性は後ろ姿なのでよくわからないが、服のセンスから考えて二十代後半から三十代ぐらいだろうか。髪は黒でセミロング。男の方は白髪交じりで、背広姿。五十代ぐらいに見える。どっしりとしており、会社の役員のような雰囲気を醸し出している。
「そうですね、まあ年齢差がちょっとあるかなと」
 私はとりあえず当たり障りないように答えた。
「あとは?」
「あとは、えーと、ぱっと見はちょっと不自然かもしれませんね。親子っていう感じには見えないし、職場の同僚っていうのも」
「……だよね。で、そこからいろいろと想像してみて聞き耳立ててほしいんだよ。どんなこと話しているんだろう、親子や同僚じゃないとするなら、不倫なのかな、とかね。男の服はあの女性が買ってあげたのかなとか、女が付けているアクセサリはプレゼントなんだろうか。人間っていうのは、見ていて本当に面白いんだ。仕草とかよく観察してほしいんですよね。どこへ行っても。人間を書けなきゃ小説は駄目なんだから。僕なんて人間を観察するのが好きで、学生の頃、電車の中でずっと目の前にいた男の人を見て、首掴まれそうになったことあるよ」
 Aさんはそう言って笑った。

 ビールを何本か空け、料理はすべて食べ尽くし、なんとなくまったりとした雰囲気になった所でAさんがテーブルに両手を乗せ、ゆっくりと立ち上がった。顔は赤いが足はしっかりとしている。
「それじゃ出ましょう」
「は、はい」
 いったいどこへ行くんだろうか。話はだいたい終わったから解散だろうか。
 私はテーブルの下に置いたリュックに金田一の本を入れて立ち上がり、Aさんの後に付いていった。
「講談社で領収書切っといて下さい」
「かしこまりました」
 レジの前でなにげなく交わされる会話。しかし、私は気分がよかった。あれだけ飲んで食って天下の講談社が払ってくれるのだ。いまだかつて、どこかの会社に奢ってもらったことなんてあっただろうか。デパート(高島屋)のお中元を仕分けするバイトで、夜の10時まで働くと会社持ちで夜食を頼んでくれた。私はいつもカレーだったが、多分それ以来だろう。

 さて、ここでとても大事なことを言わなければならない。
 さっか道を読んでくれている小説家志望の皆さんは、「そうか、やっぱり作家になると料亭とかで接待されるんだな」と思ったはず。
 だが、必ずしもそうではないのだ。私は今まで(2002年8月22日現在)、金田一を含めて本を6冊出して、細かい仕事もいろいろやってきた。が、料亭でウン万円単位の接待されたのはこの時の一度だけである。ほとんどの場合、打ち合わせは喫茶店やレストランで行われる。勿論、この時の食事代は編集者さんに持ってもらえる。
 もし、出版社から仕事が来た時、料亭で接待されなくても(なんだよ、テキスト王に書いてあったことと全然違うじゃんか。俺の扱いはこんなもんかよ)なんて思わないでほしい。ベストセラー作家ならいざ知らず、新人の間は料亭だったら本当にラッキーで、喫茶店やレストランが当たり前なのだ。
 私はいきなり料亭での打ち合わせから入ったため、しばらくの間勘違いしていた。本当に恥ずかしい。

 話を戻そう。
 外に出ると、もう辺りは暗くなり始めていた。19時前ぐらいだったろうか。
「工藤君、まだいけるよね?」
 古びたエレベーターから降りたAさんが、歩きながら振り返って言った。
「あ、はい」
「次の店はあんまりぱっとしないんだけど、僕の行きつけの店なんですよ。若い女の子は全然いないんだけど、まあとりあえず行ってみましょう」
 Aさんの言葉に、恐縮気味に肩をすくめながら軽く頷いた。
 料亭の後は、バーかスナックが酒を飲む。まさに接待。それ以外のなにものでもない。足を地に付けろ、とも思ったが、そんな気持ちは自信という名の風に吹き飛ばされる。私は作家として講談社の編集者から接待されているのだ。歩いている人間を全員掴まえ、金田一の本を見せて「読んでくれよ、これ! 俺が書いたんだ。すげえ大変だったけどやっと出来たんだ。それでさ、今度は小説を書くんだ。すげえだろ、おい。小説家になるんだぜ。小学生の頃からなりたかった小説家になるんだぜ、まじで」と言いたくなった。

 入り組んだ新宿の街を歩き、10分ほど経っただろうか。
 料亭があったビルより更に寂れた雑居ビルに着いた。人はあまり歩いておらず、新宿なのに妙に寂しげだ。
「ここです」
「はい」
 Aさんが視線を上げ、階段を上っていく。中はビルというよりマンションという感じだった。横に長く、進行方向左に店が並んでいる。どこもスナックやバーの類らしく、クレジットカードのマークがドアに貼られ、縦横30センチぐらいのこじんまりとした看板が床に置かれている。廊下の照明はかなり暗く、ちょっと不気味な雰囲気が漂っていた。

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