第四十五回 初取材


「あ、どうもです。こんにちは」
 Aさんからの電話を受けてすぐ、きっとダメ出し(Aさんの場合、『こことかこことか、面白いよね。このキャラクターも結構立ってていい感じだね』などと多弁な場合はダメ出しである。OKの場合は話が早い)を食らうんだろうなと思った。それぐらい提出したプロットには自信がなかった。
 だが、少しテンションが低かった私の耳にAさんの意外な一言が届いた。
「これでいいんじゃないかな」
「え、OKですか?」
「うん。前のよりずっとよくなってる。流れも悪くないし、これだったらいけるんじゃないかな。じゃあ、この線で書いてみてよ。そうだな、まずは何十枚か書いた時点で見せてもらおうか。資料欲しい時は遠慮なく僕に電話してよ。講談社の本だったら何%パーセントか割引して売ってあげるからさ。そんな感じでよろしく。じゃ」
 Aさんは私の返事を書く前にあっさりと電話を切って、私はZEROの法則でお馴染みのツーツーツーをしばらく聞いていた。

(やったぁ……)
 欲しい資料は何パーセントか割引して売ってあげるという言葉に、(やはり、くれるということはないのか)と吹けば飛ぶような自分の軽い立場を再認識したが、そんなことよりも、プロットはあれでよかったんだ! という達成感のようなものが自分の心を満たした。これで先に進める。私はとにかく早く先に進みたかった。一刻も早く小説を書き上げ、『自分の本』を書店に並べたかった。プロットがOKなら、後は小説を完成させるだけでいい。これで俺のデビューは完全に決まった。私は心の中で頷いて受話器を置いた。

 さて、小説を書くにあたって私はやりたいことが2つあった。1つ目は執筆中にコーヒーメーカーでコーヒーを沸かして飲むこと。いかにもミステリ作家という感じがするというのがその理由。そして2つ目は取材をしてみたいということ。知らない街を佐川急便のバイトの面接場所を探すために歩き回るのではなく、俺は小説家という気持ちを満々に抱きながら、取材道具を持って悠然と歩いてみたかった。
 コーヒーメーカーは既に買ったので、取材を実行に移すことにした。最初はどこにしようとプロットを見ながら考え、冒頭の海のシーンの取材ということで湘南海岸に行くと決めた。早速、その日の夜に自転車で海に向かった。

 カジュアルショップで買った白いTシャツとジーンズ、靴流通センターで買った1000円のスポーツサンダルといういつもの格好でペダルを漕いだ。生暖く、べとべととした風が顔にあたり、私の前髪が吹き上がる。
 夏の夜というだけでなんとなくテンションが高いのに、作家として取材に行くというのがまた自分を煽って、自転車に乗りながら歌でも唄いたくなった。
「取材だってよ。取材」
 そんな独り言が口をついた。
 以前、こうして海に向かった時はバイトがまったく決まらず、母親に「なんでもいいから働け!」と怒鳴られ、家にいられなくなった時だった。なんでもいいから働けという言葉がひどく情けなかった。そんなこと親に言われる20代なんて、ほとんど人生の落伍者じゃないか。小説家になると言って専門学校を辞めた時はもっと野望があった。それが今は、まず時給、次に月の休みの数、そしてバイト先の人間関係。考えているのはそんなことばっかりだ。海を見ながら泣きたくなった。もう俺はこのまま駄目になるんだろうなと。
 あの日と比べると、取材のために海へ向かっている自分はなんと自信が満ちていることだろう。

 海岸沿いの駐車スペースに自転車を置き、辺りを見回した。スクーターがめり込んでいる砂浜、ペットボトルとクラゲが打ち寄せる海、星が10個ぐらいしか見えない明るい空。夏の湘南はとても綺麗とは言えないが、そこが味だと言える。
 冒頭、登場人物の一人が海を見て復讐を決意するというシーンがある。海をどこから見るのがいいだろうか。
 しばらく視線を振っていると、いい場所が見つかった。
「あの墓、いいかも……」
 地元の人はピンと来るかもしれない。江ノ電の線路沿い、確か鎌倉高校前駅の近くに海を見下ろす感じで墓があるのだ。墓参りをしながら海を見て復讐を決意する。いいじゃないか。
 私は踏切を渡って、漬け物石を適当に並べたような階段を上がっていった。見晴らしがいいから恐怖は感じないものの、夜なのでさすがに不気味ではある。ある程度上ったところで海を見た。左に鎌倉、右に江ノ島。景観を遮る建物は一切ないので、海の広さと空の広さが同時に感じられて墓にいるということを除けばなんとも心地よい。月に照らされた白い波が激しく岸に打ち寄せている。
「よし、ここを使おう」
 私は持ってきた手帳にボールペンで細かい情景などを書き入れながら、そう決意して階段を下りていった。

 翌日。
 私は早速、プロローグの部分を書き始めた。私の小説家人生の最初を飾る部分だ。とにかく気合いを入れていこう。
 今、その時の原稿がないのでそのまま載せられないのだが、確かこんな感じだったと思う。

 ――暑い夏の日。

 風が吹き始めた。男は少し汚れた右手で髪をゆっくりと掻き上げた。指の先に額の汗が触れる。もう夕方だというのに気温は下がる気配がなかった。
 男の視線の先にある海は、太陽の光を受けて美しく、そして激しく輝いている。青と白が混じり合った波が、砂浜で遊んでいる若い男女を脅かすように打ち寄せた。

 いつだったかな

 男は海を眺めながら、ふと考えた。
 以前にも今と同じような気持ちになったことがある。日常の中にいるのが苦痛で、それなのに日常から逃げ出せない自分に腹が立ってどうしようもない嫌悪感を抱いた。
 ため息をつき、スーツの内ポケットから煙草を取り出して火を点ける。
 吐き出した煙が、海風と共に夕陽で赤く染まった空に上っていった。男はその様子をじっと見ていた。風になんの抵抗も出来ず、簡単に巻き上げられる煙、そして5年前、力に屈して彼女を救えなかった自分。
「……似たもの同士か」
 男はそう呟いて口元を緩めた。こんな風に皮肉を言うようになったのも、「あの時」からかもしれない。

(見たかおまえら、これが小説家の文章だよ)
 と、姫神のCDをヘッドホンで聴きながら誰に向けて言うわけでもなく心の中で吠えた。いや、「まだ作文とか書いてるの?」「口だけならなんとでも言えるよね」などと鼻で笑っていた奴らに向かって吠えたのかもしれない。
 すべてゼロでまったく余裕がなかった金田一の時とは違い、才能を見せてやる、俺の力を見せてやるといった意識が心を支配する。俺はプロの小説家なんだ。そんな言葉を自分に言い聞かせるように心の中で唱えた。
 興奮状態のまま一気に30枚ほど書き上げ、いつものように郵便局から簡易書留で送った。

 そして数日後。
 Aさんから電話がかかってきた。

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