第五十五回 初めての出会い


 時計の針がぐるぐると周り、あっという間に約束の日が来た。
 汚らしく伸びていた無精髭はアロエスムーサー付きのカミソリで綺麗さっぱり剃った。通年、たとえ雪が降っていても、新宿へ行く時でも裸足にサンダルという組み合わせだが、この日ばかりは靴下と普通の靴を履くことにした。一昔前の漫画だったら、

「まあ……あの方、髪はぼさぼさ、髭は伸び放題、おまけに靴には穴が空いていますわ。あんな汚らしい格好で舞踏会へ来るなんて」

「姫、一緒に踊っていただけますか」
「なんだ君は! だいたいなんだね、その格好は! 無礼だろ!」
「ええ。喜んで」
「ひ、姫!?」
「どの方も小綺麗な格好で踊りも上手。でも、それだけでは退屈です。あなたのようなお方とは初めてお会いしました。とても興味があります」

 という展開が期待出来るが、実際となると、まず無理だろう。
(財布どこやったかな、財布)
 私の財布は中身も消えるが本体自体もよく消える。もうすぐ、早乙女たちが車で迎えに来る時間だ。はっきり言って持って行くものは財布しかない。時計は、母親の形見のそれはとっくの昔に電池切れ、動いているのは2年ぐらい前にレンタルビデオ店のクレーンゲームで取った200円ぐらいのデジタル時計しかなく、ちょっと恥ずかしくて付けるのは無理だ。唯一必要なものがなくなるというのは頭に来る。
 だいたいよく使う物が消える時は、置かれている場所は決まっている。探している視線のちょっと上にあるのだ。立っている時になんかの拍子に手を伸ばしてひょいと置いてしまい、見つけるのが難しくなる。
(視線の上……手を伸ばせば届きそうな所ってどこだ)
 昨日の夜の行動を必死で再現しながら、家の中を動き回った。
「あ、あった!」
 財布は部屋の中の壁掛けスピーカーの上に乗っていた。同時に、

 ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン

 と、激しくドアが叩かれた。
「ああ、わかった、今出る」
 財布を後ろのポケットに差し込んで、ドアを開けた。
「おう。用意出来たか」
「一応」
「じゃ、先、車に行ってるぞ」
 体を反転させた早乙女の腕を慌てて掴む。
「ちょ、ちょっと待てよ」
「なに?」
「一人で行くの心細いからさ、一緒に行こうよ」
「おまえ、意外と小心者なんだな」

 靴を履いて上着を着て、私と早乙女は家を出た。女性と初めて会うというのはなかなか緊張するものである。そこに“会長秘書”という言葉が加わり、

「な、なにするんですか、やめて下さい」
「なにをって、それは決まってるだろ、きみ」
「あ、やめて……」

 という、H秘書はナマがお好きシリーズのビデオが頭の中で再生され、女優の顔が目から両生類の顔に変わっていくというシュールな展開が押し寄せてぐちゃぐちゃになっていく。

(いかん、まず『H秘書はナマがお好き』は忘れよう。あれを思い出しながら会うのはどう考えても失礼だ)

 私は頭をかきながら俯いてそう考えた。

(両生類……は)

 スーツ姿の女性の顔だけが両生類になっている画が浮かぶ。

(とりあえず残しておこう)

 心の準備はある程度しておいた方がいいだろう。

 路肩に停めておいた早乙女の黒い車に辿り着き、早乙女が運転席のドアを開けるのを待って、私は後部座席のドアを開けた。
「こんにちは。初めまして」
 私が乗り込んだのと同時に、助手席にいる早乙女の彼女、絵里子ちゃん(仮名)が挨拶をしてきた。さらさらのロングヘアが揺れて、車内にいい匂いが漂った。
「お仕事お忙しいのに今日はわざわざすいませんでした」
「いや、あの、仕事は別にいつも忙しいっていうわけじゃないから気にしないで下さい」
 私の言葉に絵里子ちゃんは微笑んで、そのままの表情で隣に視線を送った。
「えっと、工藤さんの隣にいるのが私の友達の彩実(仮名)です」

「こんにちは」

 この時、初めて彼女の顔を見た。

(……)

「神崎彩実です。今日はよろしくお願いします」

(か……)

 ドラクエ2のやりすぎで視力1.2から0.3に落ちた目を細めて彼女の顔をよく見る。

(可愛いじゃん……)

 横からだからいまいちよくわからないが、かなり小柄で華奢だろうか。髪は肩までのセミロングで黒、顔は片手で掴めそうなほど小さく色白で、くりくりと愛らしい目、筋の通った鼻、上品そうな口と、顔にあるどの部分を取っても形がよく、整っている。ブラウスにパンツと格好も清楚だ。夕方のニュースでやっていた成城の若奥様特集にこんな人が出ていたような気がする。
 なんというか、学校では常に頭のいい人グループに属していて、ソプラノ笛とアルト笛の吹き分けも完璧だったであろうという、下から数えた方が速いグループに属し、ソプラノ笛とアルト笛をまったく同じに吹いていた私とは、まったく接点がない雰囲気を漂わせている。
「あ、こんにちは」
 私が頭を下げると、彼女はにこにこと笑った。その笑顔をまた可愛かった。

「じゃ、俺、ちょっとトイレに行ってくる」
「あ、わたしも」
 車でやってきたのは、駐車場に止めないと高確率で駐禁を取られることで有名な鎌倉だった。
 絵里子ちゃんお勧めのそば屋で昼食を取った後、鶴岡八幡宮へ来ていた。源実朝暗殺のために公暁が隠れていたというイチョウの木は相変わらずでかく、観光客がくれる餌狙いの鳩が相変わらずあちこちでたむろっている。
 早乙女と絵里子ちゃんがいなくなり、静御前が待ったという舞殿近くで彩実ちゃんと私の二人だけになった。よくあるパターンでというか、期待していたパターンである。恐らく、早乙女たちは気をきかせたのだろう。
「あの」
「はい?」
「今日はすごく楽しいです。なんか、一人ではしゃいじゃっててごめんなさい」
 彩実ちゃんはそう言って笑顔を向けた。その顔を見て、(裸足にサンダルじゃなくてよかった)と心から思った。
「いや、そんなことないよ。俺も楽しいですよ」
「工藤さんは小説家志望なんですよね」
「はあ、まあ一応、そうです」
「頑張って下さい。工藤さんならきっと本を出すことが出来ると思います。わたし、応援しますから」
 目の前にいる女性に、小説家志望と知って引かれたことは死ぬほどあったが、応援されたのは初めてだ。
 そして、ここで気づいた。どうも、彩実ちゃんは金田一のことは知らないらしい。言おうか言うまいか考えた。だけど、わざわざ訂正して言うのもあれだし、まあ、別にいいやと思って何も言わないことに決めた。
「神崎さんは秘書なんですよね?」
「はい、一応」
 彩実ちゃんははにかみながら笑って、続けた。
「でも、結構時間持て余し気味なんですよ。他の秘書さんと二人きりで広い部屋にいるんですけど、その人とは友達っていうわけじゃないから仕事以外の話は出来ないし、毎日、パソコンに向かってるだけなんです。会長が出掛ける時に付いていくのが唯一の気分転換です。もっと、ばりばり仕事したいなぁと思っているんですけど」
「休日は何してるんですか?」
「わたし、スキューバーダイビングが好きなんです。だから、結構あちこちで潜ったりして。あとはドライブとか、あと友達と会ってご飯食べたり、映画を観に行ったり」

(全然趣味が違うな)

 成城の若奥様特集に出てきた人も似たようなことを言っていた。最近凝っているのは、家にあるCDの音声データをmp3化することと、「テキスト王」っていうサイトをやっているんで、それをいじることで、海で泳いだのは15年ぐらい前に大磯で乗っていたゴムボートが転覆して以来ありません、と言える雰囲気がない。
「あ、工藤さんってホームページ持っているんですよね。アドレス教えて下さい。絶対に見に行きます」
「アドレスね、えーと」
 彩実ちゃんが渡してきた分厚いスケジュール帳に、ペンで“http://~”と書き入れながら、

(よかった、サイト名じゃなくて。いきなりテキスト王とか言ったら、馬鹿じゃないかと思われただろうな)

 と安堵した。よく考えてみると、「テキスト王」というのは書くだけならともかく、口に出すのはなかなか難しい名前である。

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