第五十八回 告白


 冷たい風が何度も何度も頬と体に吹きつけていたのに、私の心は温かいままだった。
 近所の総菜店のおばさんが大量に作って並べた「チキン南蛮」などもあれはあれでうまいが、ごくたまに中心部が赤いままの鶏肉が出てきたりするので、気持ちが籠もっているかというとやや疑わしい。しかし、彩実ちゃんが持ってきてくれたお弁当は、紛れもなく、私のために作ってくれたものである。
「はい、お茶」
「ありがとう」
 水筒から注がれるお茶からは勢いよく湯気が立ち上り、その様子はまるで私の心そのままだった。
「ねえ」
 私から受け取ったお弁当箱をランチバッグにしまいながら、彩実ちゃんが言った。
「なに?」
「今度はなに食べたい?」
「え、また作ってくれるの?」
「うん」
 彩実ちゃんは大きくそう頷いた後、私の顔を覗き込むようにして笑った。
「勿論、食べてくれるならだけど」
「食べるよ。食べるに決まってるじゃん」
 私の言葉を聞き、彩実ちゃんは少し照れ臭そうな表情を浮かべて言った。
「それじゃ作ってあげようかな……なんて、ちょっと偉そうだね」

 その後、動物を一通り見て回った後、博物館へ行ったり、美術館へ行ったりで、あっという間に時間が過ぎていき、辺りは暗くなった。
 よく、一緒にいて気を遣わない人というのが結婚の決め手になったりするが、私にとって彩実ちゃんはそういう女性だった。私が面白がれば一緒に面白がってくれ、笑えば一緒に笑ってくれ、落ち込む様子を見せれば心配してくれる。もし、一日が48時間あったとしても、彼女とだったらその一日を楽しく過ごせるだろう。
 しかし、問題は彼女が私のことをどう思っているのかだった。お弁当を作ってくるのだって、二人きりで遊びに行くのだって、友情程度の気持ちで充分出来る。私のことをどう見ても恋愛対象にならないと思ったとしても、今日一日の我慢だと思えば偽りの笑顔を見せられるはず。
 それとなく気持ちを探るべきなのか。それとも、禁断の「告白」を決行すべきなのか。私は迷っていた。
「あのさ」
「どうしたの?」
 彩実ちゃんは私を見た。暗いせいか、一段と顔が小さく可愛く見える。
「えーと、夕ご飯どうしようか?」
「夕ご飯? そうだなぁ、じゃあ工藤さんの食べたいものでいいよ」
「え、俺の食べたいもの?」
 家を出る前、インターネットであれほど情報を頭の中に叩き込んだにもかかわらず、この頃になるとすっかり消えていた。お目当ての企画女優のビデオを借りに行った時とまったく同じパターンである。
「……歩きながら考えるってことでいいかな?」
「あはは、そうだね。そうしよっ」
 語尾に小さい「っ」が違和感なく付く彩実ちゃんの喋りにときめきながら、歩道の端をゆっくりと歩き始めた。手も握らず、腕も組まない、そんな男女が並んで歩くのは結構難しい。距離感がうまく掴めないし、第一、手のやり場がない。
(手つないでいいかなって聞いてみようかな……)
 と、まるで中学生のようなことを思いながら、彩実ちゃんの横顔と彼女の小さな右手を見た。
「工藤さん」
「あ、え、なに?」
「仕事忙しい?」
「うーん、まあ、忙しいかも。数はないけど量があるし、今みたいな仕事は今年から始めたことだから全然慣れてなくてなかなかうまくいかないんだよな」
「そっかぁ。でも、工藤さんならきっと大丈夫だよ」
「そうかな」
「うん。きっと大丈夫」
 彩実ちゃんはそう言って私の顔を見ると、少しうつむき加減になって続けた。
「あのね、わたし、前に言ったことあるでしょ。前付き合っていた彼氏のことがなかなか忘れられないって」
「あ、うん」
 そうなのだ。彩実ちゃんは私とのメールのやりとりで、確かにそんなことを私に対する相談という形で書いていた。
 彩実ちゃんの元彼というのは、海外と日本をしょっちゅう往復しているような非常に忙しい人らしい。あまりにも二人の時間が少なすぎるということで別れてしまったらしいが、それでもたまにメールが届くとどうしようもなく寂しくなるとこぼしていた。
「わたしね、もうしばらく恋愛はいいかなって思ってた。だって、もう二度とあんなに寂しい思いをしたくないから」
 彩実ちゃんと私の歩幅は少しずつ小さくなっていき、私たちの右側をレストランや居酒屋に向かう会社員やOLがどんどん追い抜いていった。
「でもね」
 彩実ちゃんの足は完全に止まった。私は彼女より数歩前の所で立ち止まって、振り返って彼女を見た。
 彼女は私の目を真っ直ぐに見ながら口を開いた。

「わたし、もう前の彼氏忘れられたよ」

「……」
 はっきりと体感出来るぐらい、心臓の鼓動が激しくなった。激しくなりすぎて苦しいぐらいだ。
 女性をこれほど愛おしいと思ったのは初めてのことだった。だからこそ、どう行動していていいのか、何を言えばいいのかまったくわからなくなった。

 私の頭の中で、過去、女性から言われた言葉が次々と流れた。

「唾飛ばさないでよ」(小2)「え、遊ぶって約束本気にしてたの?(小3)」「付き合うっていうことの意味がわからない(中2)」「ごめんなさい、映画に行くのは無理です(高1)」「不良っぽい人が好きなので……(高2)」「あたしより素敵な彼女を見つけて下さい(高3)」「他に好きな人がいるので……(19歳)」「ごめん、キャッチ入ったから(21歳)」「お兄ちゃんです(23歳)」「なんか勘違いしちゃってるよね(24歳)」「もう話したくもないし話すこともない(25歳)」

 当然のように私の中に、彩実ちゃんの言葉はなかった。前例がないのだ。
 頭の中ではどうすればいいんだろうと混乱したが、彼女に対する気持ちが心から溢れそうになってくるのがわかった。
 勘違いしていると思われるとか、何を言ったらいいのかわからないとか、そういうことじゃない。ただ、自分の中にある気持ちをそのまま口にすればいいのだ。
 想像もしていなかった自分の反応。
「以上、報告終わり」
 彩実ちゃんはそう言った後、綺麗に並んだ白い歯を見せてはにかみながら、私のもとへ駆け寄った。
「それじゃ行こっ」

 言うべきだ。もう恥をかくとか、どうせ駄目だろうとかそういう問題じゃない。

(……好きな女に対して理屈で壁を作ることはないよな。ただ、好きという気持ちを伝えられればそれでいいじゃん。たとえ、傷つく結果に終わったとしても、いつかその勇気が実を結ぶ日が来るはずだよ。何度も批難され、馬鹿にされながら金田一を書くことが出来たようにさ)。

 私の気持ちは、はっきりと決まった。
「彩実ちゃん」
 今度は私が立ち止まり、彩実ちゃんが私の数歩前まで歩いて振り向いた。
「……」
「俺さ」
「……うん」

「彩実ちゃんのこと、大好きだから」

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