第七十回 突然の求婚


 好きな人と一緒にいて一番楽しいのは、食事をしている時でも、遊んでいる時でもなく、ただ二人で何を話すわけでもなく歩いている時かもしれない。

 横浜ベイサイドマリーナにあるレストランで食事をして、特にあてもなく、海を見ながら彩実ちゃんと手をつないで歩いた。
 風はそれほどなかったが、さすがに海のすぐそばなのでかなり冷え込んでいて、彩実ちゃんの手はまるで氷のようだ。指を絡めるのをやめて、彼女の小さな手を包み込むように握ってあげた。私は心が冷たいせいか手が温かいのだ(※手が冷たい人は心が優しい人で、手が温かい人は心が冷たい人だ・妹談)。
「ヨットがいっぱい停まってるね」
 陸側を歩いていた彩実ちゃんがふと立ち止まり、手をつないだまま、私の横に立って言った。
「そうだね」
 右手で握っていた彼女の手をぐっと胸まで引き寄せて、左手をかぶせるようにしてさすった。そして、ヨットではなく海面を見た。何か魚が跳ねたら「あれはボラなんだよ」と言うためだったが、さざ波が照明を受けてキラキラと光っているだけで、海面は穏やかなものだった。
 私はどちらかというと、照明やヨットのような人工物が点在している夜の海は好きではない。青みがかった空と灰色の波、そして黒い海の方が見ていて気分が高揚してくる。しかし、二人で一緒に見るならこういう海も悪くない。
「手が冷たいな。寒いよね? もう帰ろうか?」
 私と彼女が吐く白い息が風で舞いながら消えていく。明日何があろうがどうとでも対応出来る私と違って、彼女は明日会社があるのだ。夜の海辺にずっといて、風邪でもひかせてしまったら大事である。
「う……ん、でも、もう少しいる」
 彩実ちゃんは私を見上げながら言って、再び歩き出した。
「お仕事はかどってる?」
「あー、そうだな、一カ月前よりは進んだと思う。今の調子でいけば来月か再来月には完成するかも」
「そうしたら」
 彼女は再び足を止め、私を見た。
「もっとたくさん会える?」
「会えるよ。どこか行きたいところある?」
「えーとね、旅行へ行きたい」
「たとえばどこへ?」
「圭くんはどこへ行きたい?」
「どこでもいいよ」
「わたしも一緒ならどこでもいい」

(……)

 愛くるしい彼女の笑顔を見て本当に不思議な気持ちになった。出会った時は、明日がどうなるかわからない自由業と秘書、立っている場所がまったく違うと思ったのに、今では彼女が隣にいてくれるのが当たり前だし、違和感のようなものをまったく感じないのだ。
 そして、だからこそだろう、初めて会った時の予感が再び頭によぎった。あの時はあまりにも不相応で誰にも言えなかったその予感。

 ――もしかして、俺たち結婚するんじゃないのかな

 今まで結婚なんていうものを意識したことはなかったし、出来る立場でもなかった。小学生の頃、左手首上部、

左手の平

 矢印辺りを右手の親指で押して、

左手の手首上部を右手の親指で押したところ

膨らみが二つ出来たから、俺は子供が二人出来ると真剣に思っていたが、子供とか結婚なんていうのは中学ぐらいからはまったく考えなくなった。恐らく、一生を独身で終えるのだろうと思っていたし、結婚しようにも自分の夢を考えたら無理だろうと諦めていた。しかし、彼女の出現でその思いは変わった。
 この子とずっと一緒にいられたら、どれだけ幸せだろう。別に小説家として大成しなくても、いや、途中で止めたとしても、彼女と暮らせればそれでいいんじゃないか。

「何考えてるの?」
 彩実ちゃんが不思議そうな表情で私の顔を覗き込んだ。
「……」
「なあに?」
「あー、と、うん。あの、いつか言おうと思っていたんだけどさ」
「うん」
 どうしようどうしようと思いながら、言葉が出てくる。
「実は……さ」
「実は?」
 日頃、UFOは実在してもおかしくないと真剣に訴えているとは言え、これを口にしたらさすがに呆れられるのではないか。止めようという気持ちが働いているのだが、それでも彼女の笑顔を見ると止まらないのだ。
「初めて会った時、思ったんだよね。あの……」
 ここでふと我に返った。やはり駄目だ。どう考えても引かれる。
「いや、やっぱ、ごめん、いいや。気にしないで。いや、気にしないでってのも変だな。今までの流れは忘れてっていうか、いや、それも無理か」
 自分で言って自分で笑って、間を作るためにわざとらしく咳払いをして、もうなんだかわからなくなってきた。
「うん、無理。そこまで言ったなら、最後まで言って」
 どうやら観念するしかないらしい。ため息をついた後、頭を掻きながら言った。
「あ……えっと、実は初めて会った時、思ったんだよな」
「うん」
「――俺はこの子と結婚するんじゃないかって」

「……」

 彩実ちゃんは呆気に取られたような顔になって、私を見つめた。やっぱりだ、それはそうだ、ここから全力でフォローだとまくし立てる。
「悪い予感はよく当たるんだけどね、まあ、この予感はどうなるかわからないけど。なんていうのかな、単なる勘だからさ、あんまり気にしないで」
 駄目だ、喋れば喋るほどどつぼにはまりそうな気がする。調子に乗って暴走し始めた、付き合い馴れしていない男の典型例だ。この話題はさっさと終わらせて帰路につくかと思って彼女の手を引こうとしたが、彼女は自分から手を離して私の目の前に立った。
「へえ、そっかぁ……あの時、そんなこと考えてたんだ」
「まあほら、勘だから。考えるのは自由だろ?」
「うん、自由だよ」
 彼女は上目遣いで私の顔を見てクスクスと笑いながら言った。なんだかからかわれているみたいだ。
「ねえ」
「なんだよ」
 どうせ笑う気なんだろうと、ちょっとぶっきらぼうに応えると、彼女は私の手を両手で取って言った。
「……今でもそう考えてくれてる?」
「え」
「わたしと結婚するって」
 彼女の問い掛けにどう答えるのが一番いいのだろうか。正直に言うべきか、適当に誤魔化した方がいいのか。女性に対していつも正直に言って「気持ちが重い」などと返された過去を考えると誤魔化すべきかもしれないが、どうも男らしくない。妄想だろうがなんだろうがもうここまで来たら開き直って言うしかないだろう。
「俺は思ってるよ。この子と結婚するんだって」
 彩実ちゃんは私の言葉を聞いて、俯きながら笑った。そしてゆっくりと顔を上げて、言った。
「あのね、わたしは全然そんなこと思ってなかった」

(だよなぁ、そりゃ……)
 肩が落ちる。

「だから正直言って、衝撃の告白だった。びっくりした」

 けらけらと笑う。やっぱり私のことをからかっているのか、とにかく楽しそうだ。
「でもね」
「……」
「今はわたしも思ってるよ」
「え」

「わたしは圭くんと結婚するんだって」

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