第八十二回 今と昔と


「何について相談なの?」
 そう聞かれた私は、しばらくの間、目を泳がせた。棚に収められている分厚い本と漂う煙草の煙、そして黒いソファにガラスのテーブルを目にすると、昔、何かの用事で入った小学校の校長室のように感じられてどうにも落ち着かない。
「えーとですね、あの、フリーで仕事している人は青色申告をする方がいいと本で読んだんですけど、僕は今年そういう仕事を始めたばかりでよくわからないので、まあ、どういう風に申告すればいいのかなぁと思いまして」
 私の言葉を聞いて、三人は肩を上げて息を吸い込み、顔を傾けながら鼻から吐き出すと、頭を掻いたり、ソファにもたれかかったり、煙草を取り出したりする。心を覗いてみないとなんとも言えないが、歓迎されていないことは間違いないようだ。
「じゃあ帳簿とかつけてないでしょ」
 白髪眼鏡の男性がソファに深くもたれかかったまま言った。
「はあ、そうですね、つけてないです」
「じゃあ駄目」
 男性はあっさりとそう言った後、頭を横に向けて軽く捻り、大きくため息をついた。
「あとさ、あなたの年収、まあどれぐらい稼いだのかは知らないけどね、一千万とかそこらあれば青色申告でもいいと思うけど、そうじゃないなら別に白色でいいんだよ。一千万ぐらいあんの?」
「いや……その十分の一ぐらいだと思うんですが……」
 その言葉に、三人は再び鼻を鳴らして、頭を掻いたり、ソファにもたれかかったり、溜息をついたりして反応する。
 恐らく私は、その道の専門家に“パソコンを購入したらインターネットという所につなげないといけないんですか?”とか、“女の子と付き合い始めたら、毎日一回、必ず電話しないと駄目なんですか?”などと尋ねているようなものなんだろう。
「それだったらね、白色で充分。青色は稼いでからにすればいいんだよ。まあどうしても青色で申告したいんなら、ちゃんと帳簿つけてね」
「はぁ……」
「聞きたいのはそれだけ?」
「ええ……そうですね……あの、ありがとうございました」
 実際はあまりよくわかっていなかったが、これ以上突っ込んで聞ける雰囲気ではなかったので、ちょこんと頭を下げてデイバッグを持って部屋を出た。

(すげえ場違いな感じだったな)
 玄関にある自動販売機でカップのホットコーヒーを買い、すするように飲んだ。
(とりあえず、青色申告っていうのは俺には関係ないってことだな。じゃああとは経費の問題か)
 部屋を出ると、平机を挟んで老若男女が向かい合って話し合っている光景が目に映った。雰囲気から判断すると、私に背中を見せて座っているのが税理士で、顔を見せているのが納税者たちだろう。納税者たちは税理士に額に皺を寄せながら、税理士が指し示している所にボールペンでなにやら記入をしている。
(とりあえず、あそこでもう一度聞いてみるか)
 私は右手で顎の辺りを何度かさすった後、歩き始めた。
 部屋の一番後ろの方まで行き、振り返って居並ぶ税理士たちを見る。恐そうな人とかぶっきらぼうな人は避けて、穏やかな感じの、出来れば女性を探してその人に相談したい。
 一人一人の顔を確認していると、ほとんどが男性の中、机の真ん中辺りにベージュのハイネックのセーターを着て丸いフレームの眼鏡を掛けた小柄な女性がいるのを見つけた。童顔に見えるが年齢は恐らく三十代半ばぐらいだろう。ぽやあっとした朗らかな雰囲気で黒いジャンパーを着た中年の男性と話している。
 男性が相談を終えて場を立ち去ったのを見て、私はすぐさま、彼女の前に座った。
「こんにちはぁ」
 彼女は小さい目で私を見て、にっこりと笑った。
「あ、よろしくお願いします」
「どういったご相談ですか?」
「あのですね、あの、えーと、あの」
 私はそう言いながらデイバックを開けて中をまさぐり、支払い通知書を取り出した。
「僕、去年の夏頃に本を出版したんですよ。それでまあ、物書きとして申告しようと思って来たんですけどなにぶん、すべてが初めてなもんでわからないことが多くて……」
 彼女は私の言葉を聞いて、興味深そうな顔をしながら頷いた。
「そうなんですかぁ。そうですよね、初めてだと大変ですよねー。作家さんだと周りにそんなにいるわけじゃないから聞けないし」
「そうなんですよ!」
「うふふ、そうかぁ、だったらうーんどうしようかな、うん、じゃあわたしが申告書を全部書きます」
「えええ!」
「今日、申告に必要な書類は持ってきましたか?」
 なんというラッキーな展開だろうか。懸案の経費問題も相談する前に解決しそうな流れだ。
「はいはい! 全部持ってきました」
 私はデイバッグの中に入っていた書類をすべて机の上に出した。彼女はそれらを見て、作業しやすいようにきちんと並べていく。そして電卓を叩きながらボールペンで空欄をテキパキと埋めていった。経費の件は、私がレシートや領収書などを一切残していないことを告げると、そういった場合の処置をしてくれた。
「とりあえず出来ました。これをそのまま提出すれば大丈夫ですけど、来年の申告の時に困らないようにわたしのを真似して書いてみて下さい」
「いやあ、どうもありがとうございます」
 やっぱり、親切な税理士さんもいるんだなぁと感激しながら、申告用紙とその控えを受け取った。控えは取り外して白紙になっており、どうやらここに書いてみろということらしい。彼女の言うままに空欄を埋めていき、私が書いた申告が完成した。
「来年はこれを持ってきて見ながら書くとわかりやすいですよ」
「はい、そうします、本当にありがとうございました」
 感激しながら何度も頭を下げる。こんなことなら最初からここに来ればよかったと思いながら、椅子に掛けていたダウンジャケットを手に取ると、彼女は言った。
「今年は領収書をきちんともらって、帳簿つけてくださいね」
「はい、えーと、どんなやつでつければいいんでしょうか?」
「これぐらいの収入ならお小遣い帳でもいいと思います。ジャポニカとかの」

 入れたてのホットコーヒーを飲みながら、カーテンを開け、ふと窓の外を見た。冬の日曜の昼間、空は私が好きな降りそうで降らない雨雲で覆われている。
 謎ときファイル2のプロット作成依頼のメールを受け取ってから、もう半年が過ぎた。去年の今頃は朝の6時頃に起きて自転車に乗り、途中の道沿いにあるラブホテルを見て心の中で中指を立てた後、バイト先のロッカーで着替えをしてベテランアルバイトが設定し終えたサーバーをひたすら箱に詰めていたような気がする。
「ほんとにお疲れさまぁ」
 彩実ちゃんの声が受話器から聞こえた。カーテンを閉めて部屋の中央に座り込む。去年の自分と一番違うのは、バイトをやめて文章で稼いでいることでもなく、本を出したことでもなく、彼女がそばにいるということなのかもしれない。
「わたしの場合、全部会社でやってもらっているから申告のこと全然わからないけど、大変なんだよね」
「うん、多分大変なんだと思うけど、俺の場合は全部やってもらったからそんなに大変じゃなかったんだ」
 私は笑いながらそう言って、続けた。
「まあでも、とにかく無事に済んでよかった。これで、事故に遭って死んだりしたらライターの、とか付けられて名前が出るかな」

 19歳か20歳ぐらいの時、ローソンの前で原付バイクに乗っていてスピード違反で白バイに捕まった時、「職業は?」と聞かれて「アルバイトですけど」と答えたら、「アルバイトという職種はないから無職だな」と言われて切符にそう書かれた。
(いや、働いてんじゃん)
 と思ったが、当然、言い返せる立場ではなかったのでそのまま受け入れた。
 高松君の家でテレビを見ていた時、バラエティ番組で「自称」作家の人が面白おかしく紹介されていた。
「俺がもしテレビに出るとしたら、どう紹介されるんだろうね。やっぱ、自称作家かな」
 と冗談半分に笑いながら言ったら、
「んー、まあ多分、無職になるんじゃないかな」
 と真顔で返された。
 世の中には“作家志望”という職業は存在しない。私は高校を卒業して10年近くもの間、自分がどこかに属していてもなにかをやっていても世間からはなにもやっていない人間だと見なされていたのだ。馬鹿でかい婚礼家具を真夏に団地の五階まで運び、ものすごい勢いで流れてくる車のギアを点検して箱詰めし、ゲームショップでセーラームーンのカセットがいくつあるかを数え、高松君の部屋で、彼に借りたミステリに文句を言って、家でワープロを打って小説を書いていても、それらはすべて“0”なのだ。編集者が「定職に就いて書いた方がいい」と言うのはよくわかる。
 アルバイト時代よりも明らかに収入は減ったが、著述業者として確定申告をしたことは自分の中で大きかった。物を書くことが自分の仕事だと言えるようになったからだ。

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