第八十三回 彼女の両親


「事故に遭って死んだりしたら、無職の、じゃなくて、ライターの、とか付けられて名前が出るかな」
 私が笑いながらそう言うと、彼女は戸惑うようになにか短く言葉を発し、そして沈黙してしまった。いったいどうしたんだろう。私もなにも言えなくなってしまった。
 長い沈黙の後、受話器から悲しげで私のことを責めるような声が聞こえてきた。
「……どうして死ぬとか言うの?」
 彼女と喧嘩したこともなければ怒られたこともない。だから、怒りを含んだ彼女の言葉を聞いたのは初めてだった。笑って適当にまとめたいがとてもそんな雰囲気ではない。私は相変わらずなにも言えないし、彩実ちゃんもなにも言わない。先ほどと同じぐらいの沈黙があって、我慢出来ずに口を開いた。
「……ごめん」
「冗談でもそんなこと言ったら駄目だよ」
 彩実ちゃんは小さくため息をついた後、諫めるようにそう言って、ゆっくりと言葉を続けた。
「子供の頃からの親友がね、神戸に住んでいたの。すごく仲が良くて、手紙を書いたり、よく電話したりしてた。でも、あの日――阪神大震災があったあの日、倒れた家の下敷きになって亡くなったの」
 ずっと関東に住んでいて、大学に行ったことがなく、友達も同級生もみんなこっちの人間だったから、自分の知っている人があの震災と関係があったというのは驚きだった。相づちの打ちようもないまま黙っていると、彼女は続けた。
「電話してもまったくつながらなくて、彼女が亡くなったって聞いたのは次の日だった。家族は二階にいて無事だったんだけど、一階で寝ていた彼女だけ……。なんかもう、ずっと泣いてた。なにも出来ない自分が情けなかった」
「……そうかぁ」
「だから、ね。これからは冗談でも事故に遭って死ぬなんて口にしないで。そんなことになったら、わたしだけじゃなくて、圭くんの書いたものを楽しみにしている人がみんな悲しむことになるんだよ」
 きっと、目の前に彼女がいたら土下座をして謝ったに違いない。受話器を持ちながら、なぜか目の前にあったテレビに向かって頭を下げた。
「もう絶対に言わない。悪かった。謝る。ごめんなさい」
「ほんとに?」
「ああ」
「絶対?」
「うん、絶対」
「……ならいいけどっ」
 私がいつもネガティブなことを言って彼女に慰められて最終的に撤回するので、「ならいいけどっ」はすっかり彼女の口癖になっていた。そして、彼女が先ほどとはまったく違う、いつものちょっと甲高い明るい声で言った。
「じゃあ日曜日、何時に待ち合わせしようか?」
 ついにこの日が来たと言うべきか。彼女の両親に挨拶をしに行く日が来週の日曜日に決定したのだ。挨拶と言ってもいきなり結婚を申し込みに行くというわけではない。とりあえず顔見せである。しかし、彼女とはその後、二人で泊まりがけの旅行へ行くことになっていて、それは彼女の両親も知っていたから、単なる顔見せというわけではなく、かなり真面目な挨拶ということになる。
「みんなで夕ご飯食べるんだよね。だったら、4時ぐらいに駅で待ち合わせて、それから彩実ちゃんの家でいいんじゃないか」
「うん。じゃあ4時。ちゃんと手帳に書いておく」
「あのさ」
「なあに?」
「彩実ちゃんのお父さんってどんな人?」
 私の真剣な問い掛けに、彩実ちゃんは困ったように唸って言った。
「うーん、どうって、普通の人だよ」
「俺が行って、いきなり怒り出したりしないかな」
「しないしない、そんなこと絶対ないよ」
 彩実ちゃんはけらけらと笑う。
「そうだなぁ、どっちかというとおとなしい人だと思う。でも、お母さんが明るい人でちゃんと会話は成り立つと思うから平気だよ」
 こちらの不安材料を出来るだけ少なくしようと彼女は努めて明るい調子でそう言ったが、改めて考えると、本当に大丈夫なのかと心配になってくる。
 彼女は知る人ぞ知るお嬢様大学を卒業し、某有名企業に就職して、会長秘書として日々働いている。この経歴と彼女の性格の良さを併せて考えると、彼女の両親がいかに大事に彼女を育ててきたか伝わってくる。
 そんな大切な娘が、「この人が、今度二人きりで泊まりがけの旅行へ行く彼氏です」と連れてくる男が、ジャポニカ学習帳で帳簿をつけても大丈夫と言われた、今まで見たことも聞いたこともない物書きである。私が彼女の父親だったら、「おまえか、俺の娘をたぶらかしている奴は!!」と顔を見た瞬間に顔面に塩を浴びせるだろう。
「……とりあえずスーツは着ていった方がいいよね」
「えー、別に普段着でいいよ」
「いや、駄目だ。着ないと話しにならない」
「そうかな。別に圭くんがそうするって言うならいいと思うけど……」
 彩実ちゃんはちょっと戸惑ったように言って、笑った。

 そして、日曜日。
 髭のそり残しがないかどうか両手を顔に当ててまさぐり、スーツを一度脱いでほこりがついていないかどうかを確認し、頭の中で挨拶のシミュレーションに夢中になっているうちに彼女の家の最寄り駅に電車は到着した。「うわ」と言いながら慌てて降りる。初めて降りる駅だったので視線をあちこちに移しながら閑散とした自動改札を抜けると、ふわふわとした感じの白いコートを着た彼女が笑顔で右手を振っていた。
 ふと立ち止まって革靴を確認する。高校を卒業してからは3年に一回ぐらいしか履いたことがないので違和感を感じて仕方がない。
 冬の関東地方は晴れることが多いが、この日は曇り。私は大きく深呼吸をして、彼女のもとへ足を進めた。
「ちょっと真っ直ぐ立ってみて」
 声を掛ける前にそう言われ、気をつけの姿勢を取ると、彩実ちゃんは私の顔をしげしげと見た後、ネクタイを直して、少し背伸びをして肩のほこりを払ってくれた。
「うん、平気」
「お父さんの機嫌よかった?」
「大丈夫だって、そんなに心配しなくても。もしなんか言われてもわたしがちゃんとフォローしてあげるから」
 彼女はそう言って私の前髪を小さな手で整える。
「そんなに緊張しないでも平気だよ」
 彩実ちゃんが私の頬をそう言いながら撫でて、その手をゆっくりと下ろして私の右手をぎゅっと握った。お互い、顔を見合わせて笑った。彼女は本当に嬉しそうだった。今日は知り合ってから何日目、今日は付き合い始めてから何日目と、ことあるごとにこっちがまったくカウントしていない記念日を教えてくれた性格から考えて、自分の両親と恋人が初めて対面する今日という日は、彼女にとってとても大切な日なんだろう。
 駅に隣接している駐車場まで歩き、彼女の車に乗ってもう一度深呼吸をする。
「年収のこと聞かれたらどうしよう」
「そんなこと聞かないよ」
 彩実ちゃんはそう言って笑った。しかし、万が一ということもあるし、第一、恋人の両親に挨拶しに行くという経験が初めてなので、なにを言われるのかまったく想像がつかない。

 車で15分ぐらい行った所、いわゆる閑静な住宅街に彼女の家はあった。しばらく見上げていたが、二階建てのごくごく普通の一軒家である。もし、バッキンガム宮殿みたいな家だったらどうしようと心配していたのでかなり安心した。
「ただいまぁ」
 彩実ちゃんがそう言ってドアを開けると、廊下の突き当たりにある扉が開き、彼女の母親がゆっくりと歩いてきた。彩実ちゃん同様に小柄で、眼鏡をかけている。ここまではいいのだが、目も口も表情も、まったく笑っていない。
「おかえり」
 そう言って、私と目を合わせる。
「いらっしゃい」
「あ、あの、今日はよろしくお願いします」
 これ以上ないほどの緊張感を持ちながら深々と頭を下げた。淡泊な対応と笑っていない目。歓迎されていないことがひしひしと伝わってくる。父親が厳しくて母親がフォローするという話はよく聞くが、母親が厳しいという場合はいったいどうなるんだろうか。
「まあ、寒いでしょうから中に入って下さい」
 彩実ちゃんの母親はそう言って、すたすたと部屋に戻っていった。彩実ちゃんは私の顔を見て微笑むと、大丈夫だからという風に何度か頷いた。

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