第八十四回 終わりの始まり


 足にまったく馴染んでいない革靴を脱ぎ、用意されたスリッパを履いた。脱いだ靴を揃えようと振り向くと、彩実ちゃんが既に揃えてくれていて、「先に行ってて」と笑顔で言う。
「うん」
 小さく頷いて廊下を歩き、居間に通じる引き戸を開けた。
「あの……こんにちは、初めまして」
 入り口の所に突っ立って、頭を下げた。背中からは廊下の冷たい空気が、正面からは暖房の温かい風が当たってくしゃみをしそうになる。
「――いらっしゃい」
 大きな部屋にペルシャ絨毯らしきオリエンタルな柄の絨毯が敷かれていて、丸い一枚板のテーブルを中央にして、ソファが置かれている。そしてそのソファに座っていた白髪の、黒いセーターを着ているまさに紳士といった容姿の男性が立ち上がって私に言った。彩実ちゃんの母親同様、笑顔はない。
「いつも彩実が世話になっているね」
 低く、落ち着いた感じの声である。
「いえ、とんでもないです」
 雰囲気に圧倒されながら、「お世話になっているのは僕の方ですから」と続けそうになったが、この場合の“お世話”というのはなんなのか、解釈のしようによってはかなり卑猥な感じがすると思ったので言葉が出かかる寸前でなんとか抑えた。
「ま、とりあえず座って下さい」
「はい。失礼します」
 再び頭を下げて座ろうとすると、彩実ちゃんがやって来て私にスーツの上着を脱ぐように言う。頷きながらスーツを渡すと、彼女は持っていたハンガーにかけて、部屋の奥の方に吊した。
「コーヒーでいいですか?」
「あ、もう、はい。いただきます」
 膝に両手をついて、彩実ちゃんの母親に頭を下げる。
 やがて洒落た感じの白いカップが彩実ちゃんの手によって運ばれてきて、テーブルの四辺にそれぞれ置かれた。そして、全員がそれぞれソファに腰掛けた。私の正面には彩実ちゃんの父親が、左には母親が、そして右には彩実ちゃんがいる。
 少なくても友好的ではないし、かと言ってそれほど険悪でもない、なんとも居心地の悪い雰囲気が流れていて、私は唾を飲み込んだ後、小さく深呼吸をした。
「この間、工藤さんの小説を読ませていただきましたよ」
 彩実ちゃんの母親がそう言って、私の顔を見た。小説とは恐らく、『森山文佳の事件簿』のことだろう。
「あ……どうもありがとうございます」
「工藤さんはとても読みやすい文章を書かれるんですね」
「あ、ええまあ、それだけが取り柄ですから、ははは」
 と笑っているのは私一人だけで、彩実ちゃんの両親はまったく笑っていない。
「わたしは本が好きで、ミステリもちょくちょく読むんですよ。工藤さんはこれからもずっとミステリを書かれるんですか?」
「はい、一応、そのつもりです」
 ちらりと正面に視線を移すと、彩実ちゃんの父親が会話に入る素振りさえ見せず、俯きながら黙々とコーヒーを飲んでいる姿が目に入る。
「彩実から好きな人が出来たと言われて、どんなお仕事をしている人なのか聞いてみたら本を書いている人だっていうんですよ」
 彩実ちゃんの母親はそう言って深々とため息をついた後、彩実ちゃんの顔を呆れたような眼差しで見ながら続けた。
「ドラマじゃあるまいし、なんでそんな特殊な仕事をしている人を好きになるのか。自分の娘ながらよくわかりませんね」

「……」

 当事者を目の前にしていきなり本音が飛び出し、もうどうしていいかわからない。お父さんは相変わらず黙ったままだ。すみませんでしたと謝るのも変だし、かといって他の話題を振るというわけにもいかない。彩実ちゃんの方に目だけ向けると、彼女も私を見ていて、困ったような笑みを浮かべている。
「ところで、工藤さんは好き嫌いはあるんですか?」
 きっとこの後の夕食をどうするか決めるのだろう。もしこの場が笑いに包まれてるなら、

「ええ、茶碗蒸しと酢豚、マシュマロ、メロンパン、ビーフシチュー、ハッシュドビーフ、ミートボール、この七品がまったく食べられないんですよ」
「あら、どうして?」
「茶碗蒸しは温かいプリンにしか見えないし、酢豚はかかっているどろどろしたものが謎だし、マシュマロはなんで出来ているのかわからないし、メロンパンは緑色で硬いっていうのが不気味だし、ビーフシチューは鉄の味がするし、ハッシュドビーフはカレーもどきだし、ミートボールは丸いハンバーグというのが変な感じだからです」
「あら、おかしな理由ね、おほほほほ」
「いやあ、まいったな。あははははは」

 と展開して更に場が和む方向へ進むだろうが、心から笑っている人が一人もいないという現状では、

「いや、特にありません」

 と言うのがやっとである。
「それだったら中華でいいですか」
「あ、中華大好きですから」
 自分の身を守るためにも、酢豚を除いて、と続けたいが、この雰囲気で否定的なことを言うなんてとても無理だ。
「じゃあ、あの店でいいな。味は少し心配だけど」
 彩実ちゃんの父親が久々に口を開いてて少し笑ってくれた。あ、なんだ、もしかして緊張してたのかなと安心したのつかの間、
「平気でしょ。彩実の手料理を美味しいと言って食べているぐらいだから」
 彩実ちゃんの母親の、皮肉なのかジョークなのかまったく判断がつかない言葉が飛び出して、再び心が沈んでいく。
(普通はこういう場面で……)
 コーヒーカップに手を掛けながら、私はある“法則”を思い出していた。

 本や雑誌、ネットの文章を読んでいると、年に5回ぐらいは、彼女の実家へ行って挨拶した人の話というのを目にする。大抵の場合、導入は私の場合と同じく厳しい。しかし、ほぼ100%に近い確率で出てくるのが、

 無口で不機嫌そうだったお父さんがお酒を飲み始め、同時に勧めてくる
 ↓
 お父さんが酔っぱらい、娘をよろしくと笑い泣きしながら言ってくる
 ↓
 わかりましたと答える
 ↓
 いやあ、緊張したけどなんとかなりましたで終わる

 という流れである。“彼女の家に挨拶へ”という文面を見ただけで、(彼女のお父さんが酔っ払って一件落着だろ)と読むのをやめるぐらい私の中では鉄板の法則なのだが、部屋の中をちらちらと見ている限り、この法則は通用しないのがわかった。お酒がまったく見あたらないのだ。恐らく、彩実ちゃんのお父さんはお酒が飲めないのだろう。
 わからないようにため息をついて、カップに口をつけると、
「――それはそうと」
 お父さんが口を開いた。
「あ、はい」
 慌ててカップを置き、膝に手を置いて彩実ちゃんの父親を見る。

「彩実と泊まりがけで旅行へ行くそうだね」

 この状態でこの話か……。私は再び唾を飲み込んだ。

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