第八十五回 反省会


「彩実と泊まりがけで旅行へ行くそうだね」
 相変わらずまったく笑顔のない彩実ちゃんのお父さんのその言葉は、場の空気を更に重くした。
(……)
 この後、いったいどうなるのか。
 もし、中尾彬のような外見のお父さんから言われれば(怒鳴られるか、笑顔でよろしくーと言われるか)とコント的なオチを想像して心臓もいくらか楽になるが、なにしろごくごく普通の紳士なのでなにを言われるか想像がつかない。このまま黙っていると余計に雰囲気が悪くなりそうなのでなにか言いたいが、現在の状況を考えるとなにを言っても駄目な気がする。
(考えろ考えろ)
 目を泳がせながら、なんとかいい返答の仕方はないかと頭をフル回転させる。返答でこんなに一生懸命になったのは、青田さん(仮名)に「俺と付き合ってくれ」と告白して、「それってあたしじゃなくてもいいんじゃないの?」と返された時以来だ。もう土下座をして「娘さんと旅行に行かせていただきます。本当にすみません」と謝ろうか。だが、神経を逆なでしそうな気もする。少なくとも私が親の立場だったら「謝るくらいなら行くんじゃねえよ、馬鹿野郎」と足蹴にするだろう。
「あの、あ、あの」
「どこへ行かれるんですか?」
 私が二の句を継げずに口をぱくぱくさせていると、彩実ちゃんのお母さんがものすごく距離を感じる敬語で言った。
「え?」
「まだ彩実に二人の旅行先を聞いていないので」
「あ、えーと、あのー、神戸です……だよね?」
 彩実ちゃんを見てそう言うと、彼女は困った笑みを浮かべながら頷いた。
 阪神大震災で亡くなった彼女の親友の話を聞いて、二人で手を合わせに行こうと私が言い出したのだ。
「新幹線で行かれるんですか?」
「はい、その予定です」
「のぞみを使うんですか?」
「いや、まだどれに乗るのかっていうのは決めてないんですけど……」
「ここからだと、東京か新横浜からっていうことになるのかな」
 お父さんが会話に入ってくる。
「そうですね、新横浜が一番いいのかなぁと」
 この調子で最終的にはシングル二部屋かそれともダブルなのかツインなのかというところまで聞かれるんじゃないかと椅子に座ったまま貧血気味になったが、さすがにそんな生々しい話は誰もしたくなかったようで、彩実ちゃんのお父さんが不意に立ち上がり、「じゃあ、散歩がてら予約しに行こう」とお母さんに言い、二人は上着を羽織って居間から出て行った。

(……)
 ソファに浅く腰掛けたまま、私はしばらく放心状態だった。頭が動くようになってから、すっかり冷め切ったコーヒーの表面を見て家に上がって今までをざっと振り返ったが、歓迎の“か”の字もない雰囲気としどろもどろの会話、そして中途半端な会話の中断、どこを取っても“うまくいった”とか“よかった”とか言えるところがない。
「お疲れさまぁ……」
 彩実ちゃんが私の横に座って、(よく頑張ったね)とでも言いたげな顔で手を握ってきた。
「……もう駄目だ」
「駄目じゃないよ。あれが普通なんだよ」
 彩実ちゃんはそう言って、さすがにそのフォローは無理があるのかと思ったのか、「でもちょっと圭くん、可哀想だったね」と続けた。
「俺、相当駄目に思われたと思う」
「なんで?」
「なんか、質問にまともに答えられなかったし、堂々とした男らしい振る舞いってのが全然出来なかったじゃん。彩実ちゃんのお父さんもお母さんも今頃呆れかえってるよ。あんなのと付き合って大丈夫なのかって」
「そんなことないって」
「いや、そんなことあるって」
 それから、彩実ちゃんと二人きりになると必ず出てきてしまう、結局俺は駄目という自虐トークを速射砲の如く繰り出した後、これ以上はないだろという深い場所まで落ち込んでいった。食事の場では、彩実ちゃんの位置がもっと自分寄りになることを期待するしかない。
「コーヒー、新しいの入れてくるね」
 彩実ちゃんは私のカップを取って、台所へと向かった。

 一人になってもう一度考えてみた。
 まず、あの雰囲気の悪さはいったいなんだったのか。服装は悪くないと思うし、髭だって愛用のアロエスムーサー付きカミソリでちゃんと剃ってきた。態度だってそんなに悪くなかったと思うし、言葉遣いだってそうだ。
 いや、待て。態度や言葉遣いは関係ない。だって、扉を開けて彩実ちゃんのお母さんに挨拶した時からもう悪い雰囲気が漂ってきていた。なんというか、敵意のようなものを感じた。家に上がってお父さんに挨拶した時も同じだった。
 俺は敵なのか。なんでそう思われたんだ。
「圭くん?」
「あ、ああ、ごめん」
 いつの間にか彩実ちゃんが隣に座っていた。目の前に置かれた白いコーヒーカップからは湯気が立ち上っていて、私は砂糖とクリームを入れてスプーンでかき混ぜながら、彼女の顔を見た。
「ねえ、わたしの部屋、見る?」
 気分転換になると思ったのだろう。彩実ちゃんが立ち上がって私の手をぐいと引っ張った。
「ああ、そうだな。行ってみようか」
 カップが載ったコーヒー皿を親指と中指と人差し指で持ち、彩実ちゃんの後をついていく。
 二階へ上がって手前の部屋が彼女の部屋だった。その奥にある部屋は弟さんの部屋らしい。彼女が扉を開け、私はちょっと首をすくめながら入った。
「あんまり面白い部屋じゃないんだけどね」
 彩実ちゃんは照れ臭そうにそう笑いながら言って、どうぞと厚みのあるクッションを渡してくれた。
 六畳の部屋で床はフローリング。ベッドと机、本棚などが置いてあってテレビやゲームの類は一切ない。彼女らしい、清潔感のある真面目な部屋だ。そこら中に置いてある電化製品から発せられる電磁波の影響なのか、朝起きた瞬間から耳鳴りがする私の部屋とは雲泥の差である。
「あ、あれ俺があげたやつじゃん」
 ベッドには、彼女の誕生日に私がプレゼントしたまん丸のインテリアランプが置かれていた。思わず立ち上がって、ぺたぺたと触る。
「そうか、ちゃんと使ってくれてるんだなぁ」
「当たり前だよ」
「あ!」
 私の背より少し高い本棚に目をやると、文庫本や新書、ハードカバーに挟まれて私が記事やコラムを書いたナンプレファンやナンクロがずらりと並んでいる。
「全部買ってくれてるんだ」
 真ん中辺にあったナンクロを手に取り、親指でページをめくる。
「それも当たり前。彼氏の活躍を目にして喜ばない彼女はいないんだから」
 まさか全部買ってくれているとは思っていなかったので驚いたし、感動した。そして不思議な感じがした。私が住んでいる場所とはまったく違う場所に住んでいる彼女が、私が立ち寄ったことのない書店で私の書いたものが掲載されている本を買っているということに対して――。

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