第八十六回 脱稿


 トゥルルルルルル トゥルルルルルル――

 相変わらずうちの電話の呼び出し音はけたたましい。いつ購入したのか記憶にない、古いそば殻の枕に顔をめり込ませた状態で起き、左手で後頭部を掻いて片目を開ける。朝なのか昼なのか。多分、昼に限りなく近い朝だろう。体を半回転させながら伸ばしなんとか起きて、受話器を取った。
「はい……もしもし、工藤ですけど」
「講談社のAです」
 始めは聞くたびにときめいた出版社名も、“こ”を聞いた時点で胃がズキズキと痛み始める。『クイズ!ドレミファドン!』の超ウルトライントロクイズで私は一度も正解したことがないが、イントロがAさんの声から始まったら胃の痛みと共に誰よりも速くボタンを押せるだろう。
「あ、どうも……」
 乾燥した唇を舌で舐めて、ちゃんと声が出るように咳払いをした。間違いなく催促の電話だ。寝起きと思われないようにした方がいいだろう。
「原稿どうなってんの」

(やっぱり……)
 大正漢方胃腸薬、まだ残っていたかなと思いながら左手で胃の辺りを抑える。

「いつまで経っても送って来ないからさ、もうやる気なくしてんのかと思って心配して電話しちゃったよ」
 いつもはほとんど感情を表さない人だが、明らかに苛立っていた。
「いや、やる気がないなんてことはないんです。ただ、なんというかですね、なんかこう、プライベート? その辺でいろいろあって、でも、あの、もうすぐ、もうすぐ出来ますから」
「もうすぐってさ、具体的にいつ?」
「具体的ですか、三日、いや、明日までには完成します」
 明日なら文句ないだろと思いながら言ったが、
「あー」
 Aさんはなぜか諦めたような声を出す。
「それじゃ駄目なんだよなぁ」
「え」
「明日じゃ間に合わないんだよ。君も少しは業界のこと、知ってるだろ」
「……え」
 業界のことってなんだと思いながら、受話器を握り直した。
「編集部にもいろいろと都合があるからね。いつまでも待っているわけにはいかないってこと。悪いけどもうやめてもらうしかないな」
「え!?」
「それじゃ」
「え、ちょ、ちょっとAさん、あの、明日じゃ駄目なら今日の夜……」

 ツーツーツーツーツーツー

(……)

 私は受話器を持って呆然と立ちつくした。今までやってきたことがすべて水の泡になってしまった。毎日毎日モニターに向かい、熱を持った腕に氷を巻きつけながらキーボードを叩いて作った話が全部駄目になってしまった。途端に息苦しくなって、思わず胸の辺りを右手で掴んだ。終わってしまったのだ。すべてが。

「うわあああああああああぁぁぁぁぁぁぁ」

 ♪ソ~ソ~ファ~ミ~ド#~レ~ラ~ シ~シ~ラ~ソ~ファ#~ソ~ド~

(……)
 遠くの方からなぜか『星に願いを』が聞こえてくる。あれ、この音、どっかで聞いたことがあるなぁ……と思っていると、自分が寝ていたことにようやく気がついた。さっきのことが夢だったのか、それとも、昨日実際に起きたことだったのか、かなり混濁した状態のまま目を開き、
「あ」
 それからすぐに跳ね起きて右手で顔をさすった。そして、枕元で鳴っている携帯電話を手にして通話ボタンを押した。
「もしもーし、起きてる?」
「いや……寝てた」
 体をぐるんと回して仰向けに倒れ、天井を見ながら喋る。
「やっぱり」
 彩実ちゃんはそう言って、勝ち誇ったように続けた。
「だから言ったでしょ。わたしが起こしてあげないと駄目って。ああ、よかった。新幹線に乗れなかったら大変だもん」
「そうだね」
 やっぱりさっきのことは夢だった。思わず右手で両目をふさぎ、彩実ちゃんに気づかれないようにため息をついた。
 ここしばらく似たような夢を何度も見ていた。必ずネガティブな内容で、いろんな人におまえはもう駄目だと言われ、私が泣きながら反論しても相手にされない。中には、包丁を持った見知らぬ人におまえはもう死ぬべきだと言われ、昔バイトしていた某自動車工場前の坂道をひたすら駆け上って逃げた夢もある。
(なんでこんな夢ばっかり見ちゃうんだろ)
 私は机の上に乗っている原稿を手に取り、何枚かめくって再びため息をついた。
「ねえ」
「なに?」
「お仕事終わった……?」
 心配そうに聞く彼女に私は思わず笑い、彼女がどうして笑うの? と聞いてきたのを待って口を開いた。
「終わったよ」

 神戸に行くこの日の朝方、私はついに青い鳥文庫の小説を書き上げた。前日に残り30枚のところまで来ていたので一両日中に終わることはわかっていて、それは別に大した感動はなかったのだが、いざ最後の読点を付けた時はいろいろとこみ上げてくるものがあった。特に思ったのは、これでもう苦しみから逃れられるということだ。そして0だった自分の人生がやっと1になると思った。
 静かな部屋の中で、買っておいた安い赤ワインを開けた。ワインは全然好きじゃないので、やっぱり不味かった。二口ぐらい飲んで、秀丸のスクロールバーを下げる。大量の文章が流れていく様子は圧巻だ。私はこの行為が一番好きだ。
 金田一の時と同じく、もう永遠に終わらないのではと思った。書いても書いても先が見えず、いつも迷路の中にいるようだった。だがとうとう、迷路から抜け出すことに成功したのだ。
「お疲れさま」
「うん」
 彼女の言葉に頷いた。
「圭くんも、これでもう小説家だね」
「いやいや、推敲がまだだし、駄目出しされるかもよ」
 と言いつつ、内心は(さすがに駄目出しはないだろ)と思っていた。時間を削り、心を削り、それらをすべてくべて書き上げたものなのだ。書き直しなんて考えたくないし、考えられない。
「またそういうこと言う」
 彩実ちゃんはそう言って笑った後、はにかんだような口調で続けた。
「それじゃまた後でね」

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