第八十七回 二人で神戸へ


「ごめーん!」
 私が彩実ちゃんと会う時は、必ずこの言葉から始まる。なぜなら、彼女より先に待ち合わせ場所についたことがないからだ。パンパンに膨らんだ背中のナップザックを揺らしながら、私は笑顔で手を振っている彼女のもとへと走った。
「間に合わないかと思って心配した」
 コート姿の彼女の言葉には実感がこもっている。なにしろ、乗る飛行機の出発時間ちょうどに羽田空港に着く人間が相手だ。
 横浜アリーナへ行く時と新幹線に乗る時しか降りることがないJR新横浜駅は、相変わらず人がまばらで、落ち着いた気分で改札を通った。新幹線で一番西の方まで行ったのは確か岡山で、新神戸はその時につぐ長旅である。一応、JTBのガイドブックを買ってみたが、読む暇もなく今日が来てしまった。暇潰しに机の引き出しにしまってあるマグネット将棋でも持ってこようかと思ったが、彩実ちゃんが出来ない場合は詰め将棋ぐらいしかやることがないのでやめておいた。

「なに持ってきたの? 着替え?」
 切符を見ながらひかり号に乗り込んで、座席に辿り着いてナップザックをおろしていると彩実ちゃんが言った。
「いや、ノートパソコンを持ってきたんだ、向こうで仕事出来たらやろうと思って」
 青い鳥文庫は終わったとは言え、他の締め切りが間近に迫っている。旅行中、少しでもやっておこうとソフマップで買った富士通のノートパソコンを入れたのだが、これが思いの外大きく、ナップザックの様子だけ見るとまるで山に登に行くようだ。
 新幹線はいつものように滑るように動き出し、彩実ちゃんが窓際に座ってから、私は通路側の席に座って髪を両手で掻き上げた。
「ふう」
「大変だね」
「なにが?」
「旅行に行ってもお仕事しないといけないなんて」
 感心している様子ではなく、明らかに不満そうに言う。
「いやいや、やるかどうかわかんないよ。やるかもしれない、ってこと。それにパソコンを持ってくれば」
 ホームで買った緑茶のペットボトルのキャップを外して、背もたれに上半身をあずけながら続ける。
「青い鳥文庫の原稿を彩実ちゃんに読ませられるしね」
「え、読ませてくれるの!?」
「勿論」

 私は自分の原稿を途中で人に読まれるのは好きではない。そこで完結する恐れがあるからだ。
 たとえば、小説を書き始めて3年のA君が友人のB君、C君、D君に新人賞に応募するミステリを読ませたとする。10人が殺される話で犯人の動機は「なんとなく」だったとしよう。B君とC君は誉めてくれたが、D君は「『なんとなく』なんて動機で10人も殺さねえだろ。こんな小説、賞に応募しても無駄」と言った。こういった場合、書いている方は「おまえの価値観と俺の価値観が違う。参考程度に聞くけど賞にはこのまま応募するよ」とはあまり思わない。すぐ近くにいる、強い言葉で否定する人に気に入ってもらう努力をしてしまう。そして「よくなった」と言われて達成感を覚えてしまい、

 小説を書く→?君に批判される→書き直す→?君に誉められる→最初に戻る

 というサイクルを延々と繰り返して、そのうち新人賞なんてどうでもよくなったりする。それでも書き続ければまだいい方で、?君にいつまでも認めてもらえないならプロになんてなれるわけがないと諦めてしまうこともある。一度はまったらなかなか抜け出せないので、私はこのサイクルを「魔のスパイラル」と呼んでいる。
 普通の社会に限らず、文芸サークルとか同人の世界、ネットでも似たようなことはあるだろう。勿論、誰かに読んでもらって感想を聞くのは重要なことだが、自分のスタイルを貫き通すことも大事だ。口を出してくる目の前の人は納得させられなくても、無言の不特定多数の人に認められることは珍しいことではない。自分が停滞していると思ったら勇気を持って先の世界へと突き進むことも重要だ。

 ということで、青い鳥文庫の原稿を読ませたのはAさんだけだった。初めての“純粋な読者”は彩実ちゃんにしようとずっと決めていた。
「楽しみ」
 彩実ちゃんはそう言って微笑んだ。

 新神戸に着くまで、二人でいろいろな会話をした。自称かえる顔と聞いて不安に思った、初めて会った時のこと、彼女の手料理を初めて食べさせてもらった動物園に行った時のこと、また駄目だろうと思いながら一か八かで行った歩道の真ん中での告白、そして先日の挨拶――。あの時はこう思った、あの時はああだったとまるでDVDの音声解説のように、当時の情景を思い浮かべながら話した。
 ほんの一年前は道であったとしても一瞥してすれ違っていた二人が、今こうして、新幹線に乗っている。仕事も生活環境も友人も趣味も、なにもかも違う人間二人が恋人として付き合っている。何度も思うことだが、不思議で仕方がない。

 神戸に着いてとりあえず荷物を置こうと、彩実ちゃんが会長さんから紹介してもらったというホテルにチェックインをした。これが半端なホテルではなく、最上階がどこにあるのかよくわからないような高さで、手持ちのお金で泊まれるのかなとかなり不安になった。金田一の原稿料は完全になくなり、始めた仕事ばかりで終わった仕事がほとんどない現状では、全財産などたかが知れている。
 しかし、着いていきなりお金のことを言うのもなんなので、きっと足りる……いや、足りてくれとフロントに向かって念じながら部屋に入った。
(……)
 だが、部屋の大きさも半端ではなく、(金田一の原稿料で買った、この思い出のノートパソコン売らないと駄目かな)と黄昏れつつ、ナップザックを下ろした。
「うわあ、広いね」
 彩実ちゃんはすっかりご機嫌で部屋のあちこちを見回した後、カーテンを開けて窓の外を見ていた。隣に並んで一緒に景色を眺めてみる。神戸に着たのは初めてだったが、海が近くて洋館が建ち並んでいるなど、どことなく横浜に似ているような気がして初めてという感じはしなかった。
「とりあえず、飯でも食いに行こうか」
「うん」
 というやりとりをして、中華街へ行き、その後、異人館へ行って坂道で息切れし、ポートピアアイランドを見て、(これが、小学生の頃に憧れたポートピア’80の会場か)と感動し、震災慰霊碑の前で手を合わせ、海へ行って地元の人に写真を撮ってもらい、とにかく常に一緒にいて二人で同じ物を見て、同じ物を味わって、同じことを体験した。一番好きな人とそんな時間を過ごせるというのは、なんと幸せなことだろうか。
 歩けるだけ歩いて、くたくたになって公園のベンチに座った。時折、冷たい風が吹きつけたが、彼女の手を握っていると寒いとは思わない。
「今日、すごい幸せだ」
 私は照れることもなく言った。
「うん」
 彩実ちゃんはそう頷いて、私の顔を見る。
「わたしも幸せ」
 彼女の笑顔を見て、私は(俺はこの子を絶対に幸せにしてやる)と決めた。小説家になるという夢も、彼女を幸せにするという夢も両取り出来ると信じていた。そう、疑う余地などこれっぽっちもなかったのだ。

 部屋に戻って少し休んでから夕食を食べに行こうということになり、ふくらはぎがパンパンになっていた私はベッドに仰向けになって唸った。車のギアを箱詰めしていた時は8時間ぐらい立ちっぱなしでも平気だったのに、部屋で仕事をしているとこうも体がなまってしまうのだろうか。
「ねえ」
 彩実ちゃんが私のそばに座って言う。
「小説読ませて」
「ああ、いいよ、ちょっと待って」
 起き上がってドアの近くまで行き、ナップザックを開けてノートパソコンとアダプタを取り出し、テーブルの上に置いてプラグを差し込んでスイッチを入れた。そして、キーをいくつか操作し、秀丸を立ち上げて青い鳥文庫の原稿を開いた。
「これがそうなんだぁ」
 私の横に座りながら、彩実ちゃんは身を乗り出して画面を見る。
「まあね、とりあえずこんな調子でずっと続いていくわけ」
 物を書くという仕事は過程を人に見られる機会がまるでないので、“俺はこんなに書いたんだぞ”とばかりに得意気にスクロールさせた。
「すごいなぁ」
 彼女は相変わらず感心した表情で見入っていた。その後、まったく会話がなくなってしまい、変な雰囲気になったので、
「じゃあ、そろそろご飯食べに行こうか」
 と立ち上がると、彼女は小さく頷き、だがなぜか動こうとしなかった。
「どうしたの?」
 再び隣に座って、声を掛ける。彼女はその問い掛けに答えようとしなかった。黙ったまま、俯いていた。
「なにかあったの?」
「……」
 彩実ちゃんはなにごとか呟いた。よく聴き取れなかったので、彼女の髪を撫でながら言葉をかえて問い掛けた。
「もしなにかあったなら言ってくれよ」
 彼女はなにも口にせず、頷きもしない。ただ黙ったまま、俯いている。そのまま何十分か過ぎて、彼女はようやく口を開いた。

「……ごめんなさい」

 そしてゆっくりと顔を上げて私を見た。

 彼女は泣いていた。

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