第九十七回 打ち切りの知らせ


 ぼんやりと霞みがかった空間に私はいた。左の壁には緑色のなにかの写真が使われているカレンダー。右には白いシーツが敷かれた簡易ベッド。蓋の開いた、ルゴール液が入っているらしい小さなガラス瓶が目の前に見えるのに、あの独特な匂いはなぜか感じない。
 眼鏡をかけ、白衣を着た白髪の男性が左手を額にやりながら、右手でカルテにドイツ語らしき文字を書き込んでいた。小さい頃からお世話になっているかかりつけの内科の先生だ。
「お母さんのことなんだけどね」
 先生は顔を上げ、いつものしゃがれた声で言った。
「はあ」
 突然、そう言われても私はなにも驚かない。まるで当たり前のように口を開いた。
 それからしばらく、なんとも微妙な間が空いた。落ち着かないので、背筋を伸ばしてシャツの裾を整えていると、先生は笑顔で言った。
「幸いにも転移はしてなかったよ」
「え、ほんとですか?」
「このまま、5年間、再発しなければ完治と言っていいでしょう。ただ、再発した場合はいろいろと難しいことになるから、食生活などには充分注意して。あと、ストレスを抱え込ませないようにね」
 心底ほっとする私。ため息をつきながら頭を後方に倒し、天井をしばし見上げる。とにかくよかった。でも、胃癌というのは半端な病気ではない。これからが大変だ。さんざん迷惑を掛けた分、これからは人一倍親孝行をしなければ。食事はこれから俺が全部作ろう。外出するときはいつも付いていってやろう。自由業だからその辺はできる。
「わかりました、あの、それでうちの母親は」
「外で待ってるよ」
「あ、どうも、それじゃ失礼します」
 椅子から立ち上がってそう頭を下げた私に、先生は笑顔で言った。
「あまり心配をかけちゃ駄目だよ。お母さん、体が丈夫な方じゃないからね」

「――」
 万年厚手冬物カーテンの隙間から日の光が射し込み、うつ伏せで寝ていた私の額にあたり、なんとも言えない生ぬるい感触を感じて右の目だけを開けた。
 頭を動かしたせいか埃が舞い上がっているのが見える。すぐ近くには、飲みかけのコーラが入ったペットボトルが転がっている。

 ――またあの夢だ。

 うちの母親は胃癌とわかってすぐに亡くなった。全身に癌が転移して手の施しようがなく、「背中が痛いから病院へ連れて行って」と私に言ってから、たった一カ月あまりでこの世からいなくなってしまった。ところが夢に出てくる母親は、いつも癌から生還していた。そして、母親と二人で行く先々で事ある毎に再発は危険だ、ストレスが一番駄目だからもう心配を掛けさせるなと誰かから言われるのだ。夢で語られる、5年生きたら、とか、ストレスが、というのは母親の病がわかったとき、家庭の医学を散々読んだときに仕入れた知識だろう。
 掛け布団を半分に折り、そば殻の枕を持ってぽんと前方に放り投げて、すぐにパソコンの起動スイッチを押した。
 昨日は人生で最悪とも言える一日だった。自分はいったい何者なのか、年を取るごとに重くのしかかっていたそんな不安を解消してくれた二つの大切なものが消えてしまった。
 しかし、本当に全部なくなったのか。あれだけの時間を積み重ねて築いたものが、跡形もなく消えるなんていうことがあり得るのか。私は信じられなかったし、信じたくなかった。
 彩実ちゃんからあのメールを受け取ったあと、私はかなりいろいろと考えながら次のようなメールを書いた。

 講談社は駄目だったんだ(^^; かなりいろいろ言われた。結局、力が足りなかったらしい。今までずっと頑張ってきたから本当に残念だけど仕方がないよね。
 彩実ちゃんの気持ちにはなんとなく気づいていた。だからあんなメールを送ってしまったんだけど、俺は彩実ちゃんが自分の気持ちを隠している、というか、俺に対して本心を隠さなければいけないというのがやっぱりつらいし、送ってよかったと思っている。
 今まで本当にありがとう。俺はきっと彩実ちゃんは幸せになれると思う。俺だって勿論幸せになれるように頑張る。
 これでよかったんだと思う。だから気にするな。いつまでも応援するっていう言葉、嬉しかった。

 男性ならある程度わかっていただけると思うが、

 とりあえず嫌われないようにしたい→全部未熟な俺のせい、みたいなことにしておく→この人、潔い、男らしいみたいに思われることを期待→綺麗に別れられれば、いつか復縁の可能性があるかもしれない

 という気持ちが随所に見られる文面であり、とは言え、ここで自分の名前を書いて送信ボタンを押しておけばそんな下心もバレなかったかもしれないが、最後の最後に、

 いつの日かまた会うことがあるかもしれないね。その時はまたお互いに好きになることがあるかもしれない。

 と、未練丸出しの一文を入れたため、講談社の原稿が駄目だったというところでの同情と合わせて、「もしかしたらそのことへの返事が来てるかも」という期待感があった。
 彼女と心通わせた日々は幻なんかではない。何カ月もかかって書き上げた小説がボツになり、小学生からの夢だったものが消え失せ、その上で恋人に振られたのだ。全部一日での出来事だ。そんなにあることではない。絶対に同情してくれるはず。そうだ、もう愛情じゃなくても構わない。同情でいい。もう一度、今の自分を見てメールを送ってくれることを願っていた。そうすればきっと、俺のそばに戻ってきてくれるかもしれないと考えていた。
 ネットスケープのアイコンをクリックし、右下のメールのアイコンの横に付いている「?」マークが「!」に変わることを祈った。変われば、それはきっと彼女からのメールの知らせだ。

(変われ、変わってくれ。もう一回だけ俺にメールをくれれば、今度はうまくいくんだ。だから頼む)

 だが、クエスチョンマークはあっさりと消え、メールアイコンの横にはその後、なんのマークも付くことはなかった。

(……)

 昨日、いや、一昨日までなら、きっと私を励ましてくれるメールが当たり前のように届いていただろう。そして、受け取った私は当たり前のように勇気づけられていただろう。だが、別れてしまった二人の男女の当たり前は、一切のコミュニケーションがないということだと改めて悟った。
 終わったのだ。完全に。

(本当に別れたんだな……)

 私はマウスから手を放して、布団の上に仰向けになった。

 ――――。

「8時か……」
 中学生の時から使っている、黄色の四角い目覚まし時計を持ち上げて、そして床に置いた。
 寝癖のついた髪を掻きむしりながら上半身を起こして、深くため息をついて両手の指先で両目をこする。
 あの最悪の日から、もう二週間ほど経過していた。

(今日こそなにかしなくちゃ……)

 傍らのパソコンを見て思った。
 私はあの日からなにもしていなかった。
 今までならトイレへ行って顔を洗って、朝食を食べて歯を磨いて、パソコンを起動して彩実ちゃんからのメールを読んで返事を書いて、エディタを立ち上げて書きかけの小説を開いて話を進めていっただろう。
 だが、何百日もかけて作り上げたものがゼロになってしまったことに対する虚無感、そして、もう一度作り上げたとしてもまたゼロになってしまうのではないかという恐怖感で頭も体も動かない。ただ、部屋にいて一日を過ごすだけだった。
 朝起きて、まず私が思うことは、昨日もなにもできなかったということ。なにもできずに一日を過ごし、寝て、そして起きたという事実の再確認作業だけが私の朝の仕事と言えた。
 そんな現状をなんとか打破しようと、朝起きたときは「今日はなにかしよう」「今日こそ新しいプロットを書こう」と思うのだが、結局できず、今日と同じ明日を迎える羽目になっていた。
 好き勝手に文章を書いていたときは、明日、書きたいことがなくてもなんの不安もなかった。作家面して俺は決して書くことは好きじゃないと友人たちに嘯き、それでいて、いつか自分が売れっ子作家になって月産数百枚の仕事をこなすだろうと信じ切っていた。なにもしていないことは同じでも、足下には道があったのだ。ところが今はどうだ。Aさんに「これは駄目だ」と言われ、その後、なにをするべきなのか教えられないまま別れ、自分がこれからどうすればいいのかわからずに、ただ無為に一日を過ごしている自分がいる。
 彩実ちゃんがいれば、彼女に愚痴り、彼女の意見を聞くことができただろう。しかしもう私の傍らにはいない。

 昼食を取り、部屋でゲームを始めた。近所のゲームショップで中古で買ってきた格闘物だ。
 対戦相手に負けたらやめというルールを決めて始めたが、3、4人目であっさりと負けてテレビの電源を切った。同時に、ブラウン管に私の顔が映り込む。髪はぼさぼさのままで、無精ひげを生やし、力のない目で自分を見ている自分。きっと、朝の決意とは裏腹に今日もなにもできないだろう。布団に入り、目を瞑り、翌朝起きたときはまた昨日なにもできなかったことを再確認するだろう。
 そう考えていると急に虚しくなった。大学を卒業した友人は学んだことを活かせる会社に就職して、今ではもう中堅と言える立場になっている。高校を卒業した友人は手に職をつけて管理職と言っていい立場にいる。
 みんなと会うたびに、「おまえはすごいよ。小学生からの夢を叶えたんだからな」と言われ、「好きな時間に起きられるってのもいいよな」と付け加えられ、羨ましそうな顔をして笑顔で肩を叩かれる。
 私も、本を書いてからは自分は羨まれる立場にいるのではとずっと思っていた。彩実ちゃんと付き合うようになってますますその気持ちは強くなっていた。これまでの惨めな人生を逆転させることができたのではと鼻高々だった。
 ところが仕事に失敗してみると、物書きという仕事にはなんの保証もないことがはっきりした。励ましてくれる同僚がいるわけでもない。挽回しろと次の仕事を与えられるわけでもない。
 友人や評価してくれる人は周囲にいるはずなのに、今、自分は一度はプロのライターとして本を書いたというプライドが邪魔してしまい、誰にも相談できずに自分の部屋で膝を抱えている。

 ――電話が鳴った。

 膝を立てて立ち上がり、受話器を取る。勧誘電話ではなかったとしても、Aさんからではないだろう。
「はい、もしもし工藤ですけど」
「工藤君? Kですけど」
「あ……どうも」
 居間の扉を開けて、いつものように一枚板のテーブルの上に座った。同時にほっとしたような気分を感じた。救いは自分には他の仕事がまだあることだ。そうだ、自分のことを評価してくれている人はまだいる。
「Aさんとの仕事はどうなった?」
「あー」
 私はそう言って溜めた後、苦笑いをしながら答えた。
「とりあえず駄目でした」
「え、駄目っていうことはボツになったっていうこと?」
 Kさんが少し驚いたような口調で言う。
「はあ。まあ、いろいろと指摘されてこのレベルじゃ本には出来ないよと」
「そうかぁ……。まあ、Aさんも厳しい人だからね。なかなか難しいかもなぁ」
「ええ、難しかったです」
 その後、しばらく沈黙して、Kさんがちょっと困ったような、そして、どことなくすまなそうな口調で言った。
「うーん……まあ、それはそれで工藤君に頑張ってもらうとして、こっちの方なんだけどね。ナンクロで連載してもらっているショートミステリ」
「あ、はい、そう言えば、隔月だからそろそろ書かなきゃですよね?」
「そうなんだけど、まあ、平たく言うとね、うちの雑誌、今度、全面的にリニューアルすることになったんだよ。紙面刷新っていうやつ。で、今、連載しているものは一度全部止める形にしようと。でな、君のショートミステリも次で終わりっていうことになった」
「あー……」
 覚悟はしていた。実はこれまで幾たびか、広告を載せるから今回はなしね、と言われていたのだ。雑誌というのは、本自体の売り上げの他に、広告で利益を得ている。いろいろな都合で、通常より多くの広告を載せる月も出てくる。その際、『ナンクロ』はページ数を増やすのではなく、もとある連載物のなにかと差し替えでという形を取っていた。当然、人気のある連載物は外せないから、外しても支障のないものということになる。ようは、私のショートミステリはパズル以外の連載物で、もっとも人気がないものということを告げられていたのだ。
「悪かったな」
 Kさんはそう言って、本当に申し訳なさそうに続けた。
「広告とか入っちゃって、何度も載せられないことがあって。それでこんなことになってさ。埋め合わせはいつか必ずするから勘弁してくれ」
「あ、いや、そんな」
 私は我に返って口を開いた。
「全然構いませんから。というか、俺も少しでも小説の連載ということを経験できてすごく勉強になったし、お礼を言いたいです」
「はは……そうか。これに懲りず、これからも頑張ってくれたまえ。いつかまた、新しいものを連載できることがあるかもしれないし」
「はい」
「まあ、そんなことなんだけど、一応、最終回という形でもう一回あるから、それは頼むな。いつものようにプロット、メールしてくれよ。それじゃ」
「あ、はい」

 ――プツッ

 電話口で愛想よく歯を見せて笑顔で電話を切ったが、次の瞬間、テーブルから腰を上げて座布団に顔面をめり込ませ、両膝をついて頭を抱えた。
「まじかよ……」
 確かにこれまでの展開はうまく行きすぎていた。万年フリーターの作家志望が、いきなり講談社と角川書店から声を掛けられた。サイトが注目されて様々なメディアで紹介された。いろいろな会社から仕事の依頼が来た。今まで名刺なんてもらったことがなかったのに、次から次へと業界人に会って山のように溜まっていった。雑誌で連載小説を書けるようになった。ほとんど一年での出来事だ。
 その反動なのか。私にはそうとしか思えなかった。いいことがたくさん起きたから、悪いことが起きたのだと。そのことが誤りであるということは、もう少し後に気がつくのだが、この段階では今の状況は悪夢のようなもので、時間が経てば勝手に醒めると信じていた。
 でもその悪夢がいつ醒めるのか。
 私にはまったく見当がつかなかった。

目次へ

▲このページの先頭へ戻る