第九十八回 憧憬


 なにもしないことに慣れたわけじゃない。勿論、納得しているわけでもない。しかし、なにもしないまま朝を迎えることが当たり前になっていた。
 ベランダのガラス扉に上半身を預けて両脚を伸ばし、なにを見るわけでもなく、ただ、前方に顔を向けてぼうっとしている。
 あの日からもう三週間は経過しているだろうか。今までなら、これだけ時間が空けばAさんから電話がかかってきてアドバイスと共に原稿の催促をされるか、青い鳥文庫の新刊が送られてきて、本に挟まれたAさんからのメッセージを見て発憤するかのどちらかのイベントがあったが、今は当たり前のようになんの連絡もなく、イベントもない。
 なにがいけなかったのか。どこで失敗したのか。Aさんにボツを告げられたときの光景と、真っ暗な部屋の中で彩実ちゃんの最後のメールを読んだときの光景が交互に思い浮かび、やがて虚しくなる。
 ドラマなどで、仕事などに失敗した人を主人公などが、「まだ若いじゃないですか。いくらでもやり直しがききますよ」と励ますシーンがよくある。客観的に見ていると、(そうだ、まったくその通りだ)と同意してしまうのだが、やり直すということ、もともとあったものがゼロになり、瓦礫を片付けて再度構築していくのがこれほどしんどいとは夢にも思っていなかった。
 瓦礫はもう使えない。だが、その瓦礫が目指す場所に届こうとしていた建造物の一部であることを知っているから、何度も触って捨てられずに、持ったまま立ちつくして、なぜ崩れてしまったのかをひたすら考えてしまう。崩れる前日、いや、せめて一時間前まで戻れたらどうにかなるのに。頭の中で展開されるのは、うまくいっていた頃の思い出ばかりで、どうしても先に進めない。

 玄関のチャイムが鳴った。
 どうせなにかの勧誘だろうと出るのをやめようかと思ったが、もしかしたら重要な来客かもしれないと思い直し、体を起こして玄関へ行って扉を開けた。
「おーう、久しぶり」
 目の前に中学時代は知人、高校で友人となった羽賀(仮名)が横を向いて立っていた。横を向いたまま挨拶するなんて、相変わらず変わった奴だ。
 どちらかというと小柄で恵まれた体格ではないが、野球とバスケットボールをたしなみ、私がインフルエンザで寝込んでいた時でも家に遊びに来て一人で任天堂のバレーボールをやって帰っていった男、私が水性ペンで書いた、原稿用紙二百枚あまりの小説を水溜まりに落として、字をすべて滲ませて、「ごめん、落としちゃった」で話を片付けた男。私を超える自己中でわがままな男。それが羽賀だ。
「仕事で忙しいとこ悪いんだけど、今平気?」
 平気じゃないと言っても構わずに家に上がるだろうとは思ったが、一応、聞かれたので答えた。
「あー、別に忙しくないから平気だよ」
「あ、そう。じゃお邪魔します」
 右手で手刀を切るように私に礼をすると、羽賀は黒い上着を脱いで床に置き、部屋の入り口のすぐ近くに座り込んだ。
「いやあ、元気?」
 羽賀は唐突に話を切り出してくる。
「まあ、元気と言えば元気かもね。風邪とかひいてるわけじゃないから」
「あ、そう」
 この会話を交わしている、わずか数十秒の間に、羽賀はいつものようにゲーム機のセッティングを完了していた。そして、丸井で購入した15型ワイドテレビを勝手に点けて、ゲーム機のスイッチを勝手に入れて、コントローラーのスタートボタンを押して勝手にゲームを始めた。ようするに、退屈だから私の家にゲームをやりに来たらしい。
 あの日からこれまでずっと、一人でうだうだ考え込んで常に後ろ向きで嫌な気分になっていたが、誰かと会話すればなにか見出せるかもしれないと思い、私は、そば殻の枕を手にしてあぐらを掻いた右膝に載せ、そこに右肘をついて手に顎を載せながら口を開いた。
「あのさあ」
「え、なに?」
 羽賀は話し掛けられてもゲームを中断することなく応える。
「おまえ、いいことがたくさん起こったあと……もう、こんなにいいことって起こるのかっていうぐらい起きた後に、そのいいことで積み上がったプラス分を一気にマイナスにするぐらい悪いことが起きたってことある?」
「あー」
 両手の親指でコントローラーのボタンをせわしく叩き、画面のキャラクターを華麗に操っていた羽賀が、顎でなにかを叩くように頷く。
「あるかもね」
「そういうときって、どう思った? どう思ったって変な聞き方だけど、たとえばさ、いいことが起きたから悪いことが起きたんだろうと納得するか、それとも、いいことに隠れて悪いことを引き起こす要因があったと考えるか」
「まあ、どっちも思うよなあ。というか、俺の場合、いいことと悪いことが交互に起きるというより、常に悪いことが起きてる感じっていうの? だから、もう慣れてんだよね。嫌なことが起きてもさ、あー、やっぱり、みたいな。悟ってんの。人生ってそんなもんだって」
 羽賀の言葉を受けて、私は両手の指先で頬をさすりながら言う。
「ドラえもんの何巻だったか忘れたけどさ、のび太が嫌なことばかり自分に起きるとかなんとか言って嘆いていると、ドラえもんが物置から縄を引っ張り出してきて、『いいことと悪いことっていうのは、この縄のように二本の紐がねじれているようなもので、交互に起きるようになっている』って諭すっていうシーンがあるんだよね。今改めて、そういうもんなのかなあと。……っていうかだよ」
 私は膝上の枕をどかして、腕を組んで続けた。
「あの、前言ってた、講談社の原稿なんだけど」
「おう、本になるやつ。学校の先生が主人公のやつだろ。どうした?」
「いや、ボツになったんだよな」
「ありゃあ……あ、あーっと、あああああ、あぶねえ、あぶねえ」
 羽賀は相変わらずコントローラーをかちゃかちゃと動かし、テレビ画面を凝視したまま、器用に私との会話を成立させている。どこまで真剣に私の話を聞いているのか疑問だったが、それを口にするほど野暮ではないので話を止めることなく続けた。
「今までさ、編集プロダクションからメールが届いた日から、もうほとんどいいことしかなかったんだよ。俺の人生としては珍しく右肩上がりで。でも、なんか最近、嫌なことばっかり起きるんだよね。まあ、講談社の原稿に関しては実力の問題だから仕方ないとは思う。思うから、早く気持ちを切り替えて書き直したいわけよ。でも、なんか駄目なんだよな。また嫌なことが起きるんじゃないか、とかさ、だいたい、半年以上も時間を掛けて書いたものがパーだよ。原稿用紙で三百何枚か。ショックなんてもんじゃないよ。おまえもここで読んだだろう」
「あーっ、あああ、うわあ、おお」
「俺の話、聞いてる?」
「いや、聞いてる聞いてる」
「その三百何枚がボツになって、また書き上げるのに半年かかって、またボツになって、また半年かかって、またボツになって、また半年かかってって、そんなことになったらどうなるんだろうとか思うと手も動かなければ頭も動かないというか」
 両手を左右に動かして、半年かかって、ボツになって、という部分をアピールしながら語るが、当然、羽賀は見ていない。
 不意に頭の中でなにかが通り過ぎていった。確かめたいので慌てて呼び戻し、正体を確認したところで、そうだ、この話はしておこうと切り出した。
「そういや、さっきドラえもんの話をして思い出したけど」
「ドラエホン?」
「それはドラえもん型のPHSだろ。じゃなくてドラえもん」
「ああ、ドラえもんね。はいはい」
「おまえ、藤子不二雄が自分たちのことを描いた『まんが道(みち)』っていう漫画知ってる?」
「ハムサラダくんじゃなくて?」
「いや、あれも藤子不二雄の話ではあるんだけど、作者が違うっていうか、まあその辺のことはいいや。その『まんが道』っていうのは藤子不二雄の若い頃を描いた自伝なんだけどね、その中で藤子不二雄の二人が原稿を落とすっていう事件があるんだよね」
「落と……すって……な……なに?」
 自分が操っているキャラクターがピンチを迎えているようで、羽賀の言葉は波を打ちながら細切れになっていた。
「締め切りに間に合わなかったってことだな。もう、すごい量の仕事を引き受けて田舎に帰るんだけど、そこでくつろいじゃってこなせなくて、ほとんど落としちゃうんだよ。当然、出版社からは総スカンだよ。でさ、もう漫画家をやめようと決意するんだけど、テラさんっていう二人の先輩が叱咤激励してなんとか逆境をはねのけて、また漫画家としての道を進んでいくわけよ」
「へえ」
 自分のキャラクターが敵のキャラクターに負けたらしく、羽賀はテレビとゲーム機のスイッチを切って、私の方に向き直った。
「そういや、おまえのホームページに似たような題名の話があったよな。さっか……さっか……さっかどう?」
「いや、あれは『まんが道』から名づけたから、『さっかみち』のつもりなんだけど、まあもうこの際だからなんでもいいよ。で、続き喋っていいかな」
「ああ、どうぞどうぞ」
「俺、バイト見つからないときに、面接の帰りとか図書館へ行ってさ、子供たちに混じって漫画読んでたんだよね。椅子の高さなんて10センチぐらいしかなくてね。子供用だから。そこに大人がたった一人座って、小学生たちと一緒に漫画読んでんの。で、棚に『まんが道』があって、それをふと手にとって読み始めたんだけど、地方にいた藤子不二雄の二人がお互いを認め合って漫画家を目指して、仲間とともに切磋琢磨するっていう内容でさ、なんか読んでて勇気づけられたのは勿論だけど、それ以上に仲間っていいなあって思ったんだよね。俺にはいなかったからさ――」

 ――バイトがなかなか見つからなくて、図書館に立ち寄って暇をつぶしていたとき。

 その頃、私は25歳ぐらいだった。慣れていた製造業、いわゆる流れ作業のバイトはあったが一カ月から三カ月程度の短期がほとんどで、長期でやりたかった私は、書店やカラオケ店など接客業を中心に探していた。
 だが、テキスト王というサイト上で過去何度も書いたことだが、25歳を過ぎてからのアルバイト生活というのは難しい。二十代前半ならば、面接なんていうのは形式だけで、フリーターでいつの時間帯でも入れますと言えば文句なしに採用決定だったのに、25歳を過ぎると、まず、学校を出てからなにをしていたのかを聞かれる。ずっとバイトですと答えると、なぜ就職しないのかを聞かれる。そして、正直に『小説家を目指しているからです』と答えると一気に引かれる。今風の言葉で言えば、ドン引きというやつだ。
 私は採用する側に立ったことがないから断言できないが、20歳そこそこで小説家志望というのは夢があっていい、前向き、信念を持っているなどプラスイメージが先行するが、25歳を過ぎて就職をせずに小説家を目指しているというのは、妄想癖があるとか、現実から逃避しているとか、マイナスイメージが先行するように思う。
 スピード写真で撮った、指名手配犯風の顔写真を貼りつけたコクヨの履歴書と連絡先が書かれた『デイリーan』をデイバックに入れ、思いっきりペダルを踏むとチェーンが外れる自転車であちこちと駆け巡っていた日々。
 あるCDショップの面接を受けたとき、やはり、どうしてその年齢で就職しないのかを尋ねられて、「小説家を目指しているからです」と答えたところ、青い長袖シャツを着た三十代ぐらいの長身で眼鏡姿の店長にこう言われた。

「だったら、こんなところに面接なんて来ないで、家で小説書いた方がいいよ」

 面接の時点ではねられたのはこれ一回だけで、忘れようにも忘れられない。
 当時は、馬鹿にされたような雰囲気を感じてかなりショックを受けながらも(確かにそうかもしれない)などと前向きに納得してしまったが、現代において小説家志望がずっと働かずに家に引き籠もって小説を書いて成功したという事例はあまり聞いたことがなく、それは彼も同様だったろうから、今考えれば、私を思いやって言ってくれたのではなくて、なんかおかしな奴が来たから早く追い返したくて言ったのだろうと推測がつく。私と目を合わさずに履歴書を突き返してきたことを考えれば明白だ。
 この日以降しばらく、バイトの面接であれ他人に小説家志望なんて口にするとマイナスでしかないと思い、言うのをやめた。
 そんなとき、私は図書館で『まんが道』を全巻読んだ。実は、小学生の頃に一巻だけ買ったのだが、その頃は藤子不二雄のまんが入門的な本だと勘違いしていたため、描かれている内容がまったく理解できず、廃棄してしまった。
 だが、二十代で読んだ『まんが道』は感動的だった。本の中には、漫画家と小説家という違いはあれど、物語を描いてみんなに読んでもらいたいと願う主人公が、周りに理解されなかったり、笑われたりしながらも、仲間とともに懸命に努力している姿が描かれていた。主人公である満賀道雄(藤子不二雄A)が後に大成することを知っているから、余計にうれしくてたまらなかった。
 自分もいつかこんな日が来るのでは。最終巻を閉じた後、ふと、窓の外を見上げた。そこには当時の私の状況を表しているかのように鉛色の雲があったが、いつか晴れるに違いないと信じられた――。

 私の言葉を聞いて、腕を組んで聞いていた羽賀がおいおいとばかりに突っ込んでくる。
「仲間はいなかったって、ちゃんといるじゃんよ。俺とか、高松君とか伊集院とか早乙女とか」
「友達とはまた違うんだよ。仲間っていうのは。そうだな、小説家っていう職業を目指す仲間」
「でもおまえ、前に授賞式で他の作家の人に会ったって言ってたじゃん。その人たちは仲間じゃないの?」
「仲間と言えばそうかもしれないけど、ちょっと違うんだよな。なんていうのかな、お互いの立場とか歩んできた道がわかるっていうか、精神的に共鳴できるような関係っていうか、友達とはまた違うんだよ。だから、えーと」
 私は額の辺りをなで回し、やがて、後頭部の髪を掻きむしった。話ながら物事を考えるときの癖だ。
「俺がさっか道っていうのを書いたのはさ、あー、そうだな、もし、小説家への道というものがあるのなら、それは小説家を目指す人が、たった一人で歩いているんだよ。でさ、その道は一本だけじゃなくて、小説家志望の人数分だけあんの。ここを歩けば間違いなく小説家になれるなんていう道はないんだもん。だから、みんなてんでバラバラな所を歩いている。言うなれば『ひとりけものみち』だよな。ジャングルみたいなところだから先は見えない。道半ばで倒れても、誰も助けてくれない。前を歩いている人もいないから、どこを目標にしていいのかわからないし、隣を歩いている人もいないから協力し合うなんていうことも無理。ただひたすら、前を向いて歩いていくしかないような。孤独だし、寂しいよ。馬鹿にされても笑われても、それを愚痴る相手すらいない。だからね」
 私は両手を胸にあてて、身を乗り出した。
「『ここにいるぞ! ここにも小説家志望がいるぞ!』って、自分と似た境遇の人に向かって言いたかったんだよ。旗を持って歩いていれば、遠くからでもあそこに誰かいる、この辺にいるのは自分一人じゃないんだってわかってもらえるじゃん。昔はそんなことはできなかったけど、今はインターネットがあるじゃん。だからできるんだよ。で、さっか道っていう読み物を書き始めたんだよ。多分、小説家志望ってバイトの面接で真顔で言って、笑われたり、話のネタにされているのは俺だけじゃない。俺なんて普通の人から見て、まったく小説家とは縁のなさそうな学歴で、職歴なわけじゃん。そんな人間でも、笑われながらも前向いて進んでるぞと。もしかしたら、似たような誰かが共鳴してくれるかもしれない。会うことも話すこともないかもしれないけど、そういう関係の仲間っていうの、あるだろ」

 ZEROの法則は放っておいても、なんでこれを書いたのかと聞かれる。だから、その都度、理由を話す。しかし、さっか道は特に聞かれない。だから、人にどうして書いたのかを話したのはこれが初めてだった。
 猛烈な勢いで話したので喉が痛くなり、何度か咳き込んだ。いい格好をしたいと思う相手だったら言えなかっただろう。いいところも嫌なところもお互いに知り尽くしている羽賀相手だから言えたのだと思う。

「ずっと仲間がほしかった」

 なんていい年した大人がなかなか口にできることじゃない。

「あー」
 羽賀はそう言って俯いたあと、ゆっくりと顔をあげて言った。

「ちょっと腹痛くなってきたからトイレ行っていいかな」

(……聞いてない、こいつは今の俺の話をまったく聞いてない)

 頭の中でそうぐるぐると回ったが、別に構わなかった。なにかに押されるようにさっか道を書き始めた理由を口にしたことで、今、自分がなにを求めているのか、そしてどうして先に進めないのか、その二つの解をはっきりと導き出すことができた。

 誰かが助けてくれればなんとかなるはず――

 私はあの日から、自分が“仲間”と称する誰かが颯爽と現れ、手を差し伸べてくれるのをずっと待っているのだ。嫌なことスパイラルから誰かが救い出してくれることを期待しているのだ。彩実ちゃんが行き詰まった私の愚痴を聞いてくれたように、Kさんが技術的なアドバイスをしてくれたように。
 だが、旗を地面に突き刺し、道の半ばで倒れ、なにもしていない、なにもできない今、自分に手を差し伸べてくれる人なんて現れるはずがない。それはあの日から今日までの三週間が証明している。もし私が今の自分と同じ境遇の“仲間”を目の当たりにしたとしても、やはり手を差し伸べることはないだろう。なぜか。一人で起き上がることさえままならない人間が、読者という不特定多数の人間を一人で相手する小説家という職業を続けていけるはずがないからだ。
 結局の所、現在の状況を脱する方法は、自力で立ち上がって歩き始めること以外にはない。

 立ち直りのきっかけは得た。

 だが、私にはまだ見えてないものがあり、きっかけは得ることができても足を踏み出すまでには至らなかった。

 見えていないものとはなんなのか。

 教えてくれたのは、十数年ぶりに偶然再会した中学の同級生だった。

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