第九十九回 売れないサイン


(ここに来るのも随分と久しぶりだなあ……)
 地元駅の改札から三十秒ぐらいのところにある某ビル。一階にあるドラッグストアの少し手前に立ち、建物を見上げる。
 近くにはキャバクラの宣伝看板を持つ初老の男性が無言で立っていて、ちょっと離れたところではティッシュ配りの若者がいろいろな人に声を掛けている。左の地下道を行けば市役所や郵便局、右に行けばデパート、真っ直ぐ行けばちょっとマニアックな店が立ち並ぶ通りがあり、老若男女が入り乱れている。もしかしたら、今自分が立っている場所が、地元駅周辺で一番人口密度が高いところかもしれない。
 ビルは、隣の隣にある某デパートや、ちょっと離れたところにある某デパートなどと比べると、随分と貧弱で寂れた感じのする建物だが、書店、楽器店、そしてゲームセンターなど他のデパートにはない店が入っているので、固定客がしっかりと付いている。
 煙草の品揃えがやたらと豊富な薬局の隣に、ビル同様、年季の入った細長いエスカレーターが設置されていて、私は視線を前に戻してタイミングを合わせて乗り、右の手すりに腕を載せ、鏡のようになっている左の壁をなんとなく見ながら上の階へと向かった。

 今日ここへ来たのは、サイトで使う写真素材集を買うためだった。ため息をつくことさえも忘れていたような無気力な日々をしばらく過ごしたものの、先日、羽賀が来てくれたことで少しはやる気が出てきた。なら、ここいらでサイトのリニューアルでもやってみようか。そう思って、薄い財布を後ろのポケットに入れ、いつものスポーツサンダル姿でやって来たのだ。なにかをやろうと思ってこうして外へ出て来たのは、講談社へ出向いたあの日以来のような気がする。
 更新頻度は以前と比べれば落ちたものの、それでも週に一回程度はなにかしらをアップしていたし、文字数の制約などなく好きに書けるサイトはやはり自分にはなくてはならないものだ。気分転換という意味合いでもリニューアルというのはありだろう。うまくリフレッシュできれば、まだなにも形ができていない物語のとっかかりぐらいは作れるかもしれない。
 某ビルの(記憶違いでなければ)三階と四階には大きな書店があって、家の近くにある小さな書店では手に入らないような本は、すべてここで買っていた。
 エスカレーターを降り、私は少しの間、新刊が並んだ場所で本の表紙を眺めていたが、やがて足早に奥の方にあるサイト作成に関しての本が並んでいる棚へと向かった。
 最初は厚めの本を引っ張り出していたが、裏表紙にある定価が記載された場所を見るたびにため息をついてしまうので、CD-ROMが一枚しか入っていないような、できるだけ薄い本に注目した。写真を吟味して、たまに右手を顎にあてて考え込む。使える写真が一枚だけだと、その一枚を千五百円で買うことになる。なんかそれはもったいない気がするので、せめて、十枚ぐらいは琴線に触れる写真がほしいところだ。
 空の写真や海の写真を見て、(海での話を書いたエッセイに入れられるのかな)と考えていると、背中に妙な感触を覚えた。
(ん……?)
 なにか、尖っているもの……いや、適度に丸まっている棒状のなにかで突っつかれているような気がする。不快な気がするのと同時になぜか懐かしい。なんだろう。
 誰か物などを運んでいて、私がいるせいで通りにくいのかと思い、棚に胸をつけるように前方に移動し、ふと右肩越しに後ろを見た。背中に受けている懐かしい感触が気になる。

「――」
 視線の先には見慣れない女性が私の顔を凝視している姿があった。女性は少し口を開けて、無言で私を見た後、ほっとしたような笑顔で言った。
「工藤?」
 身長は160センチぐらいで太っているわけではないがぽっちゃりとした体型、髪は黒髪でショート、ちょっと丸顔で唇は薄め。目は二重で大きく、綺麗に並んだ白い歯を見せて、私の顔を見て微笑んでいる。誰だろう、全然心当たりがない。もしかして、地元駅周辺で複数の友人に目撃されている、私と瓜二つの男と間違えているんだろうか。いや、でも名前はさすがに違うだろう。私の名字を知っているということは、私を知っていると考えて間違いなさそうだ。
「あの」
 私はそう言った後、ぶっきらぼうに続けた。
「誰?」
 失礼ですが、どちらさまでしょうか? と尋ねるのが大人としての礼儀だろうが、相手は私を呼び捨てにしているわけだから、仕事関係ということはあり得ない。多分、タメ口でも構わない相手だろう。
 私の反応を見て、女性はよほどおかしかったらしく、鼻の辺りをくしゃくしゃにして笑った。
「ごめん、ほんとにわかんないんだ」
「えー、ショックだなあ」
 女性はそう言った後、ちょっと顎をしゃくるようにして名乗った。
「関口(仮名)です」
「せきぐち?」
 記憶が一気に遡っていく。どこだ、どこで知り合った人だ。そして、中学時代で急ブレーキがかかり、制服姿の女性の顔が思い浮かんだ。
「え、あ、関口って、え、あの、なんだっけ、あ、待て、そこまで来てる、あ、あー、あの、ほら、あれだ、あれだよ、あれ」
 アテネオリンピックで北島康介にど忘れされたハンセン並みに、あれだよ、あれなんて言われて、彼女はかなりむっとしたとは思うが、さすが大人の女性で、変わらぬ笑顔を見せている。
「あ!! そうだ、中三の時に一緒のクラスだった? 確かバレー部の」
「そうです。お久しぶりです」
 彼女はそう言って笑い、深々と頭を下げてきた。中学のときはあきすとぜねこだかなんだかいう占いをいつも休み時間中にやっていて、授業中は、友達に手紙を回すため、一つ前の席に座っていた私の背中を人差し指で何度もつついてきた奴だ。
「俺は物じゃねえんだよ、指でつついてくんじゃねえ」
 と、いつものように偉そうに言ってから、彼女は私の脇腹をくすぐるようになった。そのせいで何度か笑わされ、私が教師から注意されたことを覚えている。
 礼儀のれの字も感じさせなかった奴なのに、“です”なんて語尾を使われたので、おまえも敬語かよと突っ込みたくなったが、別に距離を置こうと思って使っているわけではなく、大人としての言葉遣いなのだろう。
「いや、久しぶりだなあ。え、何年ぶりだろ」
「高一の時以来だから十年以上ぶり。あの時、同窓会やったでしょ」
「あー、やったな、そういや。あれ一回だけ」
 私が所属するクラスはどの学年でも学校でも同窓会がまったく行われないという流れがあるようで、後にも先にも同窓会と名前がついた集まりに出席したのは、高一の時に行われたものだけだった。
「あれ、この子、おまえの子供?」
 白いワンピースを着た3歳ぐらいの、母親に似た丸顔の女の子が、関口の手をしっかりと掴んで、まるでUFOから降りてきたグレイ型の宇宙人を仰ぎ見るかのような表情で私を見ている。
「そう。かわいいでしょ」
「へえ、いや、なんていうか、20歳を過ぎた同級生の女に会うのっておまえが初めてで不思議な感じだよ」
 化粧などはせず、服は制服か、セブンティーンのモデルを無理矢理真似しましたみたいな垢抜けない私服を着ていた女子が、今は化粧は念入りで、主婦雑誌の表紙モデルみたいな小綺麗な格好をして、子供を連れ、大人の雰囲気を漂わせて穏やかに立っている。人間って誰でも大人になるんだなということをまざまざと感じさせる。
「あたしは中学の時の友達に結構会うけどね」
 関口は鼻に皺を浮かべて笑う。タレントの優香と似たような笑い方で、中学の時とまるっきり一緒だ。
 それからしばらく、会話は止まらなかった。なぜ、ここでそんな本を手にしているのかというところから始まり、とりあえずサイトを作っていることを伝えると、パソコンを買ったばかりという彼女は興味津々で聞いてきた。
「話が長くなりそうだからお茶していかない? あたし、ちょうどこれからご飯食べようと思っていたんだけど」
 随分と意外な申し出だ。いくら同級生とはいえ、かなり昔の話だし、これだけ時間が空いていると普通は同性でも警戒するものだが……。
「ああ……そうだな、いいよ」
 少し面食らいながら、とりあえず本を元の場所に戻して頷くと、関口の子供が彼女の手を持ち、大きく前後に振ってぐずりながらアピールし始める。どうも、ミスタードーナツでドーナツを食べるということになっているらしい。
「ドーナツでいいよ」
 私が先回りして言うと、彼女はまたも鼻に皺を浮かべて「ごめんね」と笑いながら謝った。

 ――――

 ――う……

 ――てよ……

 起きて……

「うわっ」
「起きた起きた」
 脇腹をまさぐられた私は頭を一気に起こして、振り返った。丸顔の女子が笑いながら見ている。
「ってか、関口よ、てめえいつもいつもなんなんだよ。休み時間まだあるだろ」
 机の肘を載せて、舌打ちをしてそう言った。
 中学の教室。ついさっき、誰かが黒板に書かれた落書きを消したようで、チョークの匂いが鼻をつく。私立に行く学ラン姿の男子とブレザー姿の女子が、ゴムボールを投げて一緒になって教室で遊んでいる。教室の隅では、公立高校を受験する組がドリルに取り組んでいる。
 三年の三学期というのは、こんな風景が日常茶飯事だった。金八先生であれば、教壇右の前から二番目辺りにいる生真面目な男子が、ボール投げしている生徒たちに向かって怒鳴っているだろうが、うちのクラスにはいないようだ。
 休んでいた耳が彼らが巻き起こしている喧噪を拾い始め、再び寝るというのはどうも難しそうなので、伸びをして頭を左右に動かし、首を鳴らした。
 昼休みは、弁当の時間を入れて40分はある。私は超がつく早食いなので、35分は空く。その間、眠い日は寝ることに決めていた。
「あんたが書いた小説、戻ってきたよ」
 関口は20枚ほどの原稿用紙を几帳面に揃え、私に差し出した。当時、友達に読んでもらうため、犯人が原稿用紙10枚目ぐらいでわかる自作のミステリ小説などを持ってくることがあった。ところが「工藤が書いたの? え、読ませてよ」ということになって、友達の友達へ渡ることもあり、最終的にクラスの大半が目を通すということもあった。同級生が小説などというものを書いて持ってくるのが珍しく、三年の三学期で暇な奴はとことん暇で、気晴らしをしたい奴も多かったというのも珍しく広く読まれた理由だろう。
「おお」
 片手でひったくるように受け取り、机の中にあった袋を引っ張り出して素速く中に入れる。さすがの私でも、いつまでもあっちこっちで読まれているのは気恥ずかしい。
「工藤はさ」
 関口が両手に顎を載せ、私の顔をまじまじと見ながら言った。
「なんだよ」
「小説家になるの?」
 女子にありがちなストレートな質問だ。私は自信を持って答えた。

「なる予定」

 いったい何様のつもりなのか。
「野球はどうするの?」
「野球? やんないやんない。バッティングセンターとキャッチボールで充分」
「どうして小説家になりたいの?」
「どうしてって……」
 ちゃんと答えたことがないので、思わず言葉に詰まる。
「さあね。どうしてってあんまり考えたことないな」
「小説家になったらどうするの?」
「それは決めてる。とりあえず映画化を目指して、可能なら、自分が監督と脚本を担当するつもり」
 いったい何(以下略)。
「そうか。工藤は小説家になるんだ」
 関口は真顔でそう言って、手から顎をはなし、窓の外を見た。確かこいつは学区内でもレベルの高い公立高校を単願で受けるはず。私立単願の私とは、もう中学でお別れだ。
「あ、そうだ。おまえ、教科書出せよ」
「え、なんで?」
「サイン書いてやる。最近、練習中なんだ。俺のサイン」
「じゃあ、サイン帳に……」
「いや、教科書に書く。出せ」
 関口は戸惑いながらも、音楽の教科書を鞄から取り出して、私に差し出した。音楽の授業はもうほとんど行われてなく、教科書は使わないからということだろう。私は表紙をめくって、その裏の白い部分にペンでサインをした。
「売るなよ。絶対売るな。ずっと持ってろ。必ず小説家になるから。でも俺が小説家になっても売るな」
 なぜ、彼女の教科書にサインをしたのか。今となってはよくわからない。恐らくではあるが、私はあのときから孤独感を抱いて不安だったのだろう。誰かの持ち物に自分の名前を刻むことで、小説家を目指している人間がいることを忘れないでほしいと願っていたのではないだろうか。

「――」
 ドーナツを白い皿に二つ載せ、なにがおかしいのか関口はうつむき加減に笑っていた。気のせいか、十数年前のあの日、あの時の思い出を振り返っている気がする。私と同じように。
「そうかあ、工藤はいつの間にかそんな大層な身分になっていたのか」
 関口は、ドーナツをぼろぼろとこぼす子供の口の周りを手で拭いてあげながら、感心した様子で言った。
「大層ったってね、肝心の小説はボツになったわけだし、もう早くも挫折寸前だよ。凹みっぱなしだよ、まじで」
「でも、とりあえず一冊書いたわけでしょ? それでも充分すごいと思うよ。だって、あたしの周りにそんな人いないもん」
「本を出せたことはよかった。でも、俺は小説家になりたいわけだから、やっぱり、小説を出したいよ」
 私はそう言ってコーヒーをすすり、首の辺りをさすって続ける。
「うまいこと一冊書くことができて調子に乗ったのがまずかったんだろうなあ。すべてにおいて舐めてかかったというかさ。なんていうか、その報いなのかなんなのか、昔、他人に言い放ったネガティブな言葉が、今になって全部自分に返って来ている気がするんだよね。それで余計に凹んでさ。やっぱ、言葉って返ってくるもんなんだな」
「自信家のあんたがそんなこと言うなんて珍しいね」
「いや、年取ってわかったんだけど、俺は女相手には愚痴るらしいよ」
 自嘲気味に言って鼻で笑う。弱い犬ほど吠えるとはよく言ったもんだ。まさに自分の姿じゃないか。
「それで、講談社の小説は書き直すことにしたんでしょ。どういう話にするの? やっぱり推理小説?」
「そこなんだよなあ」
 私は背もたれに上半身を預けて、両手を後頭部に回してため息をついた。
 一から書き直すことに決めはしたのだが、その一からも、どの程度の一からにするのか、学校の先生を主役でいくか、それともまったく新しいキャラクターを想像するか。以前、Kさんに「Aさんと話し合って決めたプロットを勝手に変えるのはよくない」と言われたことがあったので、どうにも決められない。
「どういう話にすればいいのか。なんだかいろいろと難しいよ。小説って」
「あのね」
 私の言葉を受けて、関口が言った。
「なに?」
「さっき本屋さんで工藤を見かけたときね、本当にびっくりしたの。久しぶりに会ったからとかじゃなくて、実は――」
 関口が少し体を前に倒して、私になにか言おうとした瞬間、彼女の子供がコップを倒してしまってジュースがこぼれた。
「大丈夫?」
「あ、うん、平気」
 関口は落ち着いた口調で店員を呼んで、バッグからハンカチを取り出し、こぼれたジュースを拭き取る。俺の記憶の中ではずっと中学生だった奴が、突然、大人として俺の目の前に姿を現して、大人の振る舞いを見せている。そんな彼女からは俺のことがどう見えているんだろう。
「さっきの話の続きなんだけど」
「あ、ああ、うん」
「この間、実家に帰ったとき、学生の時に使っていたものを片付けようっていうことになって、いろいろと整理してたんだ。そしたらね、あれ、音楽の教科書だったかなあ、なんとなく表紙をめくったら、ペンでぐちゃぐちゃって書かれた謎の文字が出てきて。なんだかわかる?」
 先ほど振り返った思い出が、再び蘇った。何度か頷くと、彼女は楽しそうに言った。
「あたし、最初はなんだこりゃって思ったんだけど、しばらく考えていたら思い出したの。あんたがね、いきなり『おまえの教科書にサインさせろ』とか言って、『いいか、売るなよ、絶対売るな、俺は将来、小説家になるから』とかまくし立てて書いたサインだったの」
「そんなこともあったね」
「本当言うとね、見つけたとき、捨てようかと思った。でも、なんとなくね、まあ取っておくかと思って。まだ実家に置いてある。そんなことがあったから、工藤の横顔を見たときはびっくりした」
 彼女はそう言ったあと、視線を少し上にやって、微笑んだ。
「なんかね、あたし、あのとき、ちょっとうらやましかったよ。自分がなりたいものがはっきりしているなんて。小説家になりたいなんてとんでもないこと言って、原稿用紙に書いてきて持ってきてみんなに読ませてたじゃん。この人、ほんとになるんじゃないかって思った。サインはすごく迷惑だったけど」
 あの時点でうらやましいと思っている人間がいたとは意外だった。まして女性が。あのときは、みんな流し気味に付き合ってくれているんだと思っていた。
「あたし、小説のこととかあんまり詳しくないけど、工藤の話を聞いていてちょっと思ったことがあるんだ。言っていい?」
 意外な申し出を受けて多少驚きながら、「ああ、どうぞ」と言って、彼女を促す。彼女は鼻に皺を浮かべて頷くと、静かに口を開いた。
「工藤はずっと、小説家になりたいって言ってたよね。で、もう少しでなれるっていうところまで来たでしょ。工藤が今苦しんでいるのはね、小説家になりたいとずっと言って、ほんとになれそうな所まで来てしまったからじゃないかなって……。小説家っていうのは、自分が人に伝えたいことを作品に込めるっていうのが大事だと思うんだ。あたしね、あのとき、工藤の小説を読んではっきり言ってなにが書かれてあるのかよくわからなかったけど、工藤が小説家になりたいっていう気持ちはすごく伝わってきたんだ」
「……伝えたいことを作品に込める……か」

 ……。

 ふと、青い鳥文庫用の話を思い出した。私はあの話になにか込めただろうか。

 ……。

 いや……

 Aさんの要求に応えて、小説としての体裁を取り繕うことに一生懸命で、自分があの小説を通じて伝えたいことなんてなかったんじゃないだろうか。
 Aさんから原稿を返されたとき、Aさんの言葉を聞いて私は自分の技術が足りないんだと思った。しかし、一番足りなかったのは作品に込められているはずの私の気持ちなのではないか。
「ごめんね、生意気なこと言って」
「いや、そんなことないよ。ありがとう」
 関口は私の言葉を聞いて微笑むと、コーヒーに口をつける前に言った。
「工藤もいっちょまえに女子に向かって『ありがとう』なんて言うようになったか」
「馬鹿野郎、おまえ、俺はお礼とかちゃんと昔から言う人間だよ」

 私はまだ本を探さないといけなかったので、彼女を地元駅の改札で見送った。
「それじゃ、頑張ってね。金田一の本、買うから」
「ああ」
「ほら、お兄ちゃんにバイバイは」
 関口がしゃがんで、子供の手を取りながらそう言うと、女の子はやっぱり宇宙人を仰ぎ見るような呆然とした表情で私に手を振ってくれた。
「ねえ、工藤」
「なんだよ」
 私が応えると、関口はいったん躊躇しながらも、意を決したように口を開いた。
「あたし、あんたのサイン、ずっと売らないからね」
「おう」
 あまりにも唐突に言いだしたので笑ってしまったが、そんな私を見る彼女は、なんだか嬉しそうだった。
「みんながみんな、夢を持てて、それを追えるわけじゃないよ。工藤の生き方を理解できない人もいるかもしれないけど、あたしは工藤のこと、うらやましい。昔も今も。……そんなふうに思っている女子もいるっていうことで。だから頑張って」
 私は上着のポケットに手を入れながら頷いた。
「それじゃ」
「じゃ……」
 私が手を挙げると、彼女は微笑んで頭を下げ、子供の手を取って改札を通っていった。

 この日から今日まで、私は彼女に会っていない。今後、偶然、どこかで互いを認識しないままにすれ違うということはあるかもしれないが、きっともう二度と言葉を交わすことはないだろう。でも、私はこの日の再会を一生忘れない。

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